あわや人類滅亡「キューバ危機」60年 核戦争はどう回避されたのか 背景に2種の米偵察機
今から60年前の1962年晩秋、世界は全面核戦争に突入する一歩手前に陥りました。後に「キューバ危機」と呼ばれるようになったこの事件に終止符を打ったのは、2種類の偵察機が持ち帰った画像情報。本事件の一連の流れを振り返ります。
60年前にあった全面核戦争の危機
2022年11月15日、ポーランド領内に着弾したミサイルで犠牲者が出たことが発表されました。最終的には、ウクライナ側のミサイルによる不幸な事故と判明したものの、このミサイルが発射された背景次第では、2022年2月に始まったロシアによるウクライナ侵攻がNATO(北大西洋条約機構)諸国を巻き込んだ新たな段階に進展する可能性があったことから、国際社会は一時緊張に包まれました。
この一件から思い起こされるのは、今からちょうど60年前の1962(昭和37)年10月から11月にかけて、米ソ超大国の間の緊張が極度に高まり全面核戦争に突入する一歩手前という深刻な事態にまで進展した事件、「キューバ危機」です。危機を回避した立役者は、ある偵察機たちでした。
東西冷戦下の時代、アメリカを中心とした西側陣営と、ソ連(現ロシア)を中心とした東側陣営の境界線は「鉄のカーテン」と呼ばれ、西側からするとソ連を筆頭とする東側、共産主義陣営の情報は遮断された状態にありました。現在こそ、戦略情報の収集にはもっぱら偵察衛星が使用されていますが、1960年代の情報収集の主役は偵察機です。西側は偵察機を飛ばして上空から写真撮影することで、共産圏の軍備に関する情報を収集し、戦略を練っていました。
はじめは航続距離が長く高高度を高速で飛行できる爆撃機をベースに偵察機が作られ、任務に充てられていましたが、ソ連戦闘機の迎撃や追尾を受けて被弾する機体が増えるようになります。そこで、さらに高い高度を飛行することでソ連戦闘機の迎撃を避けることを目指した戦略偵察機、ロッキードU-2が開発されました。
アメリカ軍の命名規則に従った場合、通常なら偵察機には英語で偵察を意味する「Reconnaissance」の頭文字をとり、「R」の任務記号が用いられます。しかし、偵察機でありながらU-2と命名された理由は、偵察活動を秘匿して気象観測機という名目で飛行するためでした。
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