国産旅客機、その歴史は戦前に 横浜からサイパン・パラオへ

国産飛行艇による旅客機、再び空を飛ぶ可能性

 ただ残念なことに風情ある旅客飛行艇の時代は長くは続かず、1941(昭和16)年の太平洋戦争勃発と同時に川西四発飛行艇は全機、海軍に接収されてしまいました。そして、以降も本土と南方を結ぶ輸送飛行艇として運用されましたが、1945(昭和20)年の敗戦に伴い全機が退役します。

 冒頭に記したとおり、この川西四発飛行艇や当時活躍した国産旅客機とYS-11、MRJとのあいだに、技術的な継承はありません。しかし川西航空機は戦後、新明和工業として再設立され、アメリカから飛行艇を導入し技術研究を行い、海上自衛隊向けの国産哨戒飛行艇PS-1を開発。“水上機・飛行艇の名門”としての伝統を復活させました。

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新明和工業が製作した海上自衛隊のUS-2救難飛行艇(2012年10月、関 賢太郎撮影)。

 新明和工業では現在、最新鋭のUS-2救難飛行艇を生産中です。US-2は海上自衛隊のみならずインド海軍も導入を決めており、順調に行けば戦後初となる自衛隊機の輸出例となる見込みです。

 また、US-2の派生型として離島をむすぶ旅客飛行艇の計画案も公開されており、実現は厳しいかもしれませんが、そのコンセプト図は日本史上唯一の四発旅客機「川西四発飛行艇」の姿をどこか思い起こさせます。

【了】

Writer: 関 賢太郎(航空軍事評論家)

1981年生まれ。航空軍事記者、写真家。航空専門誌などにて活躍中であると同時に世界の航空事情を取材し、自身のウェブサイト「MASDF」(http://www.masdf.com/)でその成果を発表している。著書に『JASDF F-2』など10冊以上。

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コメント

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1件のコメント

  1. そしてこの横浜発着場は、今は根岸の市営プールとして営業しています。
    今年も子供を連れて行って参りましたが、当時の情景を知った時には、感激致しました。
    戦後はアメリカへ大型飛行艇を引き渡す日本からの最終発進地として。
    あの二式大艇もここの地を最後に引き渡されたという事です。
    今は子供達の歓声と近隣のコンビナート群ですが、そういう時代もあった、ということですね。