国内わずか2例「懸垂式モノレール」は「負け組」なのか? 跨座式との"独仏代理戦争"互角の戦いの歴史

日本へのモノレール上陸、「アルヴェーグ」か「サフェージュ」か

 日本への本格的な「都市交通モノレール」導入にあたっても、この跨座式「アルヴェーグ」陣営と、懸垂式「サフェージュ」陣営とで熾烈な争いが繰り広げられました。

 最初に動いたのは日立製作所で、1960(昭和35)年12月にアルヴェーグ社と技術提携を締結し、日本高架電鉄(後の東京モノレール)新橋~羽田空港間を事業化。さらに蒲田・横浜方面への延伸免許を出願しました。

 出遅れた三菱は「バスに乗り遅れるな」と、1961(昭和36)年4月に三菱重工、電機、商事を中心に東洋電機、汽車製造、東急車両など10社が加わり「日本エアウェイ開発」を設立。1962(昭和37)年6月にサフェージュ社と正式な契約を締結したのです。

 同社が1961(昭和36)同年8月に出願した最初の路線は「大手町~三鷹間」でした。さらに同年11月、大手町から延長する形で東京湾岸を走り、千葉県の五井に至る、約50kmもの長大な路線を出願しています。

 最初の都内区間は、すでに5か月前に鈴木彌一郎の「日本モノレール電鉄」がアルヴェーグ式で免許申請していましたが、入れ替わるように申請を取り下げています。この「出願譲り」劇の背景として、1974年4月発行の『電気車の科学』に掲載された座談会で、日本モノレール開発(日本エアウェイ開発が1972年に改称)専務の村岡智勝は「当時鈴木彌一郎氏が持ってきたのが、東京の現在の地下鉄東西線と同じルートです」と答えています。

 鈴木はかつて「大和観光」として新橋~羽田空港で懸垂式モノレールの免許申請をしていましたが、日本高架電鉄に免許申請を譲り、同社副社長になったあと解任されていました。もともと将来の路線構想として「羽田空港から横浜、熱海方面、新橋から千葉工業地域方面への延長」という壮大な計画を披露しており、これをサフェージュ陣営に持ち込んだことになります。

 日本エアウェイ開発は続いて1962(昭和37)年2月に蒲田~山下公園間の免許申請をしていますが、これは日本高架電鉄がかねて構想線として披露していた「横浜方面延長線」に先手を打ったものでした(日本高架電鉄は同年3月に羽田空港~蒲田間、9月に羽田空港~横浜間を出願)。

 壮大な延伸計画はとどまることを知らず、6月に大森から高円寺、十条、西新井、新小岩を経て長島町(葛西付近)まで環状7号線に沿って一周する大環状路線を出願するなど、本気で都市交通を担おうとしていたことが分かります。

【地図】えっ…! これが「幻の首都圏モノレール整備計画」です

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