東京モノレール 謎の"熱海延伸"計画とは ホントは千葉から海沿いぐるり!? 黎明期の「明るすぎる夢」

「モノレール計画」すでに先を越されていたが…

 ところがここで問題が発生します。同区間は既に、1959(昭和34)年創立の大和観光という会社が免許を申請済だったのです。同社の計画について、東京モノレールの社史に「単なるペーパープランの域を出ないものであった」とあるように、利権狙いの免許申請だったと見られることも多いですが、当時の経済誌『財界』秋季特大号(1960年10月)を見ると、必ずしもそうではなかったようです。

 モノレール構想を立案したのが大和観光の代表取締役・鈴木彌一郎です。彼もまた、羽田空港に友人の見送りに行った際に道路渋滞で間に合わなかった経験から、空港輸送の改善を思いつきました。

 鈴木は鉄道事業の経験がなく技術者でもありませんでしたが、上野懸垂線(上野動物園モノレール)に着想を得て出願書類を作り上げ、1957(昭和32)年夏に懸垂式モノレールとして免許申請を提出します。

 もっとも経験不足から書類には不備が多く、二度三度と修正し、ようやく2年後の1959(昭和34)年秋に受理されました。対応した陸運局鉄道部長は上野懸垂線の監督に当たっていた人物であり、親身に助言、指導したことも大きな力になりました。

 大和観光の計画は、新橋から羽田空港まで海面上をほぼ直線で結ぶルートで、途中、平和島ヘルスセンターなど4か所に停車場を設け、途中駅を通過する急行と各駅停車を運行するというものでした。そして将来的には羽田空港から横浜、新橋から京葉工業地帯まで延伸。さらに横浜から横須賀、江ノ島、小田原を経て箱根、熱海に結ぶ壮大な計画でした。

 鮎川らのグループは大和観光と競願になるのを避けるため、同社に合流することにします。もし鈴木の計画がまったく実現性のないものであれば、競願になっても問題ないはずですが、合同という選択肢を取ったのは、それなりに説得力があったからかもしれません。

 前掲『財界』によれば、鈴木を知っていた鮎川のブレーン佐々木芳郎の仲介で合同が決まり、元日本楽器製造(ヤマハ)社長で元参議院議員の川上嘉市、元鉄道大臣八田嘉明などの有力者が経営に参加。1960(昭和35)年6月に「日本高架電鉄」に改称し、12月に「立役者」である犬丸徹三が社長に就任します。

 並行して日立は同年8月にアルヴェーグ社と技術提携を締結。翌1961(昭和36)年1月に大和観光の申請を取り下げた後、跨座式として改めて申請し、同年12月に免許されました。

【路線図】えっ…! これが壮大すぎる「首都圏モノレール整備計画」です

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コメント

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1件のコメント

  1. 熱海駅前のビルの地下に唯一完成したモノレール駅が今なお眠っていることを書かないと
    記事として画竜点睛を欠くのでは?