なぜ「サラリーマンの街=新橋」なのか 他のオフィス街よりも“撮れ高”アリ? その歴史的な背景

対岸で異なった町の性格

 汐留川は赤坂見附付近から溜池、虎ノ門を経て新橋駅の北側(有楽町寄り)で線路をくぐり、汐留で東京湾に注いでいました。大正時代の初め頃までに線路の西側(山手線の内側)は埋め立てられ、かつての川跡は現在、山手線内側部分では第一ホテル東京などが立つ部分、外側では首都高速道路が汐留方面へ延びている部分です。

 江戸時代、現在の新橋駅から見て汐留川を越えた北西側は、外様大名の大名屋敷の中でも比較的広い屋敷がありました。津和野藩亀井家、飫肥(おび)藩伊東家といった大名屋敷などです。汐留川を越えた北東側は、今も昔も銀座です。江戸時代初期頃、徳川幕府により整然と区画が整備された町で、銀の鋳造が行われた地であり、御用商人たちの町として発展しました。

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正面の高いビルが第一ホテル東京。汐留川跡に立っている(2023年9月、内田宗治撮影)。

 一方、汐留川の南側、現在の新橋駅の西側一帯は、旗本などの武家地と一部は中小の大名屋敷、それに町人地でした。武家地でも汐留川の北側の大名屋敷に比べ、それぞれの敷地はかなり狭くなっています。

 明治時代になると、汐留川を境に、土地の性格の違いがさらに明確になっていきます。汐留川の北、新橋~有楽町間の西側(山手線の内側)は、外国人向けに舞踏会を開いていたことで有名な鹿鳴館、それに東京府庁舎のそれぞれ広大な敷地となりました(明治18年頃の例)。庶民とは別世界のエリアです。対して東側は、土蔵造りや煉瓦造りの多い銀座の町人地です。

 一方、汐留川の南側、現在の新橋駅一帯は、小規模な木造家屋がびっしりと建て込み、庶民が身を寄せ合って暮らしている地でした。こうした立地の場所に、庶民的な飲食店ができていくのは、当然といえるでしょう。

【え…】ここが「酔っ払ってたら高確率でTVカメラに捕捉される現場」です(笑)

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