博多駅に直接乗り入れていた筑肥線、その名残をたどる 利用者が多くても廃止の理由

利用者数は「幹線」クラス

 民家やマンションに囲まれた筑肥新道をひたすら西へ。場所によっては自動車の渋滞も見られました。小笹駅の跡地を過ぎ、博多駅から5.5kmほど進んだ地点で筑肥線の跡地は筑肥新道から離れ、再び木々に覆われた遊歩道(梅光園緑道)になりました。週末ということもあってか遊歩道を散歩している沿道住民が多く、市民の憩いの場として活用されている様子がうかがえました。

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小笹~鳥飼間の跡地に整備された遊歩道(2019年5月、草町義和撮影)。

 遊歩道は1km弱で終了。その先にあった鳥飼駅の跡地は城南区役所に生まれ変わりました。筑肥線の跡地は再び2車線の道路になって、姪浜駅へと進んでいきます。どこまで行っても民家やマンションが立ち並んでいて、鉄道が廃止になるような過疎地には見えません。

 筑肥線は1923(大正12)年、福吉駅(現在の福岡県糸島市)と浜崎駅(現在の佐賀県唐津市)を結ぶ区間が開業。その後は両側が徐々に延伸され、博多駅から現在の唐津市内を通って伊万里駅(現在の佐賀県伊万里市)までの区間が、1935(昭和10)年までに開業しました。

 筑肥線は開業以来、上り列車と下り列車が1本の線路を共同で使う単線でしたが、福岡市の中心部に乗り入れる路線だったことから利用者は多く、1日1km平均の利用者数(輸送密度)は1970年代末期で8000人台でした。福岡市内の博多~姪浜間に限れば、輸送密度はもっと大きかったと思われます。

 このころの国鉄は輸送密度が8000人以上の路線を、利用者が多い「幹線」とみなしていました。また、福岡市の人口は1950(昭和25)年が約48万人だったのに対し、1975(昭和50)年には100万人を突破。筑肥線の利用者も増えていました。ローカル線のような廃止問題が浮上する状況ではなかったはずです。

【地図】筑肥線の廃止区間、どこを通っていた?

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コメント

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8件のコメント

  1. 誤1:城北区役所
    正1:城南区役所
    誤2:道路との交差はすべて踏切
    正2:小笹にアンダーパス、美野島にオーバーパスあり

    • ×正2:小笹にアンダーパス、美野島にオーバーパスあり
      ○正2:小笹にアンダーパス、美野島と別府にオーバーパスあり

    • ご指摘ありがとうございます。 訂正いたしました。

  2. タイトルだと地下鉄乗り入れが廃止かと思って本文記事読んだが、騙された。読んで損した。今後は、このサイトは、タイトル騙し系サイト、信用できないサイト、読んで損する可能性が高いサイトという扱いにするわ。

    • 地下鉄開業以前に筑肥線が博多駅に直結していたことを知っている世代から見たら別に詐欺タイトルでもなんでもない。自分の無知を曝け出してるだけだな。

  3. ユーチューブで踏切事故のニュースを見て調べてたら、一部分が廃止されてたんだ

  4. 小笹駅付近は丘陵地形の関係で線路が少し高いところを通っており高架のようになっていたため、その下を道路が通っていました。したがって道路を掘り下げた訳ではなく、一般的なアンダーパスではありません。
    また、美野島と別府(べふ)のオーバーパスはどちらも幹線道路(国道)が高架橋で線路を越えていました。これらはいずれも筑肥線の部分廃止から約40年経った今でも高架橋として残っています(今となっては高架である必要はありません)。なお、美野島の高架橋の下には、今でも筑肥線のディーゼルカーの排気ガスの跡が黒く線状に残っています。
    西鉄平尾駅では、少しだけ遅れて開業した西鉄が筑肥線の上を高架でオーバーパスしていました。筑肥線廃止後、西鉄は平尾駅を含む区間が連続立体化されました。このため平尾駅付近だけは以前の土盛りのままで、他の区間のコンクリート橋の構造とは異なっています。
    「○○筑肥橋」はほかにも2箇所あります。樋井川筑肥橋と室見川筑肥橋です。

    • >小笹駅付近は丘陵地形の関係で線路が少し高いところを通っており高架のようにな
      >っていたため、その下を道路が通っていました。したがって道路を掘り下げた訳で
      >はなく、一般的なアンダーパスではありません。

      筑肥新道の高さが線路だったため、現在の小笹北交差点はアンダーパスでした。