関西でおなじみグランシャトー そこは駅だった 鉄道で分断されていた大阪・京橋の過去

線路と駅が消え、「グランシャトー」ができるまで

 1931(昭和6)年には現在の「グランシャトー」の位置に駅が移転しましたが、貨物線を含め東西に走る多くの鉄道路線が、南北の移動を困難にしていました。しかも京阪本線は、京都側は京橋の手前まで複々線・高架化が完成していたため、電車は上下線のホームしかない京橋駅の手前で詰まります。戦時中に大きな被害を受けた京阪は、京橋近辺の高架化になかなか着手できないまま、市街地化が急速に進んでいました。

 また、最大の問題は「開かずの踏切」でした。京橋駅西側の踏切は、電車の本数の多さでなかなか開かないうえ、乗り換え客などで人通りが多く、朝晩には人波で踏切の遮断棒が降りなくなるほど混雑したといいます。当時はいったん近くの広い場所に乗客を集め、係員の指示で一斉に移動する方法が試されるなど、歩いて移動することが困難な状況は、戦後20年以上も続きました。

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当時の踏切があった周辺。現在の「グランシャトー」の北西角周辺(宮武和多哉撮影)。

 1969(昭和44)年、南側に複々線の高架が完成し、地上の京橋駅と踏切はようやく廃止されました。駅ビルは取り壊され、その跡地に完成したのが「グランシャトー」だったのです。サウナ、キャバレー、中華料理店などを5階建てのビルにぎゅっと詰めた総合レジャービルは、まだバラック建ての多かった京橋のなかでも異彩を放ち、京橋の名物としてあっという間に定着しました。

 その後、関西全域で夜遅くの天気予報前後にCMが放送され、一度耳にすると忘れられないCMソングのみならず、「15秒CMは30秒バージョンを早送りしただけ」など、その独特さで存在が知られるようになりました。

【地図】緩やかにカーブした道路は線路の名残り

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コメント

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1件のコメント

  1. 「グランシャトー」のCMなんて深夜だけでほとんど放映されていないし、いまどき知ってる人も少ないと思う。アウェイならこと細かく確認してから書けとまでは言わないが、誰でも知っているというのはいまどき過言と言える。