原野から高級路線へ 東急田園都市線、大変化の背景

私鉄の経営は鉄道のみならず、沿線開発とセットで行うビジネスモデルが古くから行われてきました。東急電鉄の田園都市線は、そうした路線の代表的なひとつです。どのような背景で、どのようにその開発は行われてきたのでしょうか。同社の担当者にお話をうかがいました。

一番開発が遅れていた田園都市線方面

 私鉄と沿線の開発は、切っても切り離せない関係です。沿線地域の開発により人口を増加させ、住民の需要を満たすことで鉄道会社は潤う。阪急電鉄の小林一三が作り上げたといわれるそのモデルを、私鉄各社は忠実になぞっています。

 小林一三と縁のある東急(東京急行電鉄)も、同様の戦略的開発を行ってきた私鉄のひとつ。特に田園都市線はその象徴的路線です。この東急電鉄で沿線の開発を担当している東浦亮典さん(都市創造本部 開発事業部 事業計画部統括部長)にお話をうかがいました。

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青葉台駅(横浜市青葉区)周辺は1966(昭和41)年に田園都市線が開業して以来、急速に発展した(写真出典:photolibrary)。

■田園都市線沿線はどのように開発されたのでしょうか?

 渋沢栄一が「洗足田園都市計画」を構想し、次にその洗足をモデルにして「田園調布」という街が形成されました。それらを受けて1953(昭和28)年に計画が始まったのが「東急多摩田園都市」です。都市部における住環境の悪化が問題になっていたこともあり、東急中興の祖である五島慶太は、都心近郊にあらたな住宅地を作ることを急務としました。

■そして目をつけたのがこのエリアだったと?

 東京都心を中心とした同心円を描いたときに、一番開発が遅れていて、さらに開発の余地があると判断したのが、この一帯でした。溝の口(神奈川県川崎市)までは電車が走っていましたが。その先は全くの原野でした。すべてのモデルとなったのは、イギリスのハワードが提唱した田園都市計画です。そしてお話ししたように、東急ではすでに渋沢栄一が洗足、田園調布で都市計画を成功させていました。

 そして「この地に理想的な住宅地を形成する」という宣言のもと、まずは溝の口から長津田(神奈川県横浜市)まで路線を延伸することが決められます。長津田は宿場町であり、当時、横浜線も走る比較的大きな街でした。

都市開発が終わっても仕事は終わらない

■いっせいに開発が始まったのでしょうか?

 鉄道の敷設が決まると、今度は沿線の大地主を説得することが始まります。その際、地主の説得が終わってから一帯の開発を進めるのではなく、最初に鉄道を作り、合意が形成できたところから順番に開発していく方針がとられました。

 合意が形成されたところにはまず組合が作られ、そこから開発が進んでいくのですが、土地によっては地主さんの許諾がなかなか下りないところもありますので、タイムラグが生じます。終盤の大規模区画整理が、2000(平成12)年の川崎市犬蔵地区でした。これによって3200ha(ヘクタール)という日本最大級の計画宅地「東急多摩田園都市」が完成したことになります。

■沿線の駅はどのように決められたのでしょうか?

 駅は、現在は国道246号線にもなっている大山街道にならって建設されていきました。古い集落があったところに駅を置いていったのです。長津田駅から先は少しずつゆっくりと延伸していきました。最後、中央林間駅(神奈川県大和市)まで完成したのは1984(昭和59)年です。

 私たち東急は「交通」「不動産」「生活サービス」を提供しています。開発が終わったからといって、私たちの仕事は終わりではありません。田園都市線沿線にお住まいの皆様と私たちは、様々な局面をともに乗り越えてゆくパートナー、といえるかもしれません。

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 現在では高級路線としてイメージが定着した田園都市線。広大な原野に街を作る、という大事業は着工から50年近くの時を経て一応の完成を迎えました。しかし、街作りに終わりはありません。

【了】

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コメント

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1件のコメント

  1. 「この地に理想的な住宅地を形成する」と東急の志は高かったのだろうが、実際はサードパーティーがやりたい放題乱開発。
    景観なんてお構いなしで、アパートとフラットが乱立し、車1台停められるスペースがあればどこにでも狭小住宅を建ててしまう。
    緑ひとつも残そうともしない宮前平の茶色い丘を見ているとゾッとする。