橋がなんか歪んでる→「空襲の痕!?」 都内に意外と多い「街かど戦禍遺産」たち 東京大空襲80年 読み込み中... 拡大画像 五十稲荷神社。奥に見える社殿の向かって右に手水鉢がある(深川孝行撮影) 拡大画像 焼夷弾の猛火で割れた痕がはっきり確認でき、また、ところどころにナパーム油脂が付着し燃えた痕なのか、黒いシミのようなものも見える(深川孝行撮影) 拡大画像 焼夷弾の猛火で割れた痕がはっきり確認でき、また、ところどころにナパーム油脂が付着し燃えた痕なのか、黒いシミのようなものも見える(深川孝行撮影) 拡大画像 日本橋川に架かる鎌倉橋。対岸は大手町、上を走るのは首都高速都心環状線で、東京のど真ん中のオフィス街(深川孝行撮影) 拡大画像 石造りを模したコンクリート製欄干に12.7mm機銃の掃射によるものと見られる痕が残される(深川孝行撮影) 拡大画像 親柱にもいくつもの弾痕と焼夷弾で焼けた黒い痕が残る(深川孝行撮影) 拡大画像 鎌倉橋南詰に残る石造りの防護柵支柱の遺構にも、焼夷弾のものと見られる黒いシミが残る。欠損部分は空襲の猛火によるものだろうか(深川孝行撮影) 拡大画像 平河天満宮は銅製の鳥居が有名で、1844(弘化元)年に建てられた(深川孝行撮影) 拡大画像 鳥居の柱木には12.7mm機銃弾の痕が残る(深川孝行撮影) 拡大画像 神社には空襲による猛火に耐え切れず耳部分が欠けてしまった石牛も鎮座している(深川孝行撮影) 拡大画像 堅い花崗岩の路面には、底が六角形をした筒状の焼夷弾の着弾で空いた穴がくっきりと残っている(深川孝行撮影) 拡大画像 石造りの欄干には東京大空襲の時のM69焼夷弾による焦げ痕が確認できる(深川孝行撮影) 拡大画像 少々分かりにくいが、写真のほぼ真ん中、橋梁の上部アーチ部(上部構造)の横に渡された鉄骨フレーム(横構)が大きく凹んでいる(深川孝行撮影) 拡大画像 凹み部分の拡大写真。M69焼夷弾は鋼鉄製で重量約2.7kgだが、落下の衝撃は凄まじく、日本家屋の屋根は難なく打ち抜いて室内で引火したナパーム油脂を飛散、被害をさらに拡大させた(深川孝行撮影) 拡大画像 現在の松永橋は1996(平成8)年に架け替えられたもの(深川孝行撮影) 拡大画像 橋の東詰北側に飾られるオブジェは、旧松永橋を解体する時、上部構造に残された機銃掃射の弾痕部分を切り取った鋼材で製作(深川孝行撮影) 拡大画像 鋼材に12.7mm機銃の掃射による弾痕が2か所あるのが分かる(深川孝行撮影) 拡大画像 東京スカイツリーのほど近くにある言問橋も、東京大空襲の悲惨な爪痕が残る(深川孝行撮影) 拡大画像 親柱には焼夷弾による黒焦げが生々しく残る(深川孝行撮影) 拡大画像 1992(平成4)年の橋改修の時に取り外された欄干の縁石の一部が、台東区側の西詰にある隅田公園に慰霊碑とともに保存されている。縁石全体が高熱のため黒く焼け焦げている(深川孝行撮影) 拡大画像 浅草寺境内にそびえる戦災いちょう。後方の向かって右側に本殿、左に五重塔が見える(深川孝行撮影) 拡大画像 反対側からご神木を見ると幹部分に祠(ほこら)のように空洞ができ、内部が黒く焦げている(深川孝行撮影) 拡大画像 ご神木の空洞の拡大写真。東京大空襲の時、根元に焼夷弾が直撃した(深川孝行撮影) 拡大画像 台東区三筋一丁目の住宅地に佇む、焼け残った木製の電柱(深川孝行撮影) 拡大画像 精巧なレプリカで、実物は江戸東京博物館に保存されている(深川孝行撮影) 拡大画像 多くの訪日外国人も行き交う日本橋。この有名な橋にも東京大空襲の爪痕が残る(深川孝行撮影) 拡大画像 震災復興橋梁として1926(大正15)年に完成した永代橋も、戦災からは逃れられなかった(深川孝行撮影) この画像の記事を読む