なぜ売り続けた!?「事故ると燃える欠陥車」大企業が陥った恐ろしい「モラルハザード」の悪例とは 読み込み中... 拡大画像 フォード「ピント」から派生した「マスタングII」(写真はスポーツグレードの「コブラII」)。年々大型化したマスタング のボディサイズを縮小するために、ベースを「ファルコン」から「ピント」へと切り替えたのだ。ボディが拡大されるなど改良を受けており、このモデルで欠陥問題は起こしていない。なお、筆者(山崎 龍:乗り物系ライター)が愛車としていたが、品質や安全性に特段問題を感じることはなかった(画像:フォード)。 拡大画像 フォード「ピント」から派生したマーキュリー「ボブキャット」。デビューは1974年(カナダ市場。アメリカ市場では1975年からの販売)と「ピント」から4年遅れで登場した。設計は同一ながらも安全性は強化されたらしく、「ピント」のような欠陥問題は起こしていないようだ(画像:フォード)。 拡大画像 販売好調ながら欠陥車騒動を巻き起こした1971年型フォード「ピント・セダン」(画像:フォード)。 拡大画像 1970年代に相次いで誕生したアメリカ製コンパクトカーの先陣を切ったのがAMC(アメリカン・モータース・コーポレーション)の「グレムリン」。AMCは1954年に小型車を得意としていたナッシュ=ケルビネーターと高品質・高性能な乗用車生産で定評のあったハドソン・モーター・カー・カンパニーが独立系メーカー2社が合併(のちに「ジープ 」を擁するカイザー・フレイザーが合流)して誕生したアメリカ自動車メーカー4番目の会社。1987年にクライスラーに吸収合併されるまで存続した(画像:AMC)。 拡大画像 AMC「グレムリン」に続き、1971年にGMがリリースしたシボレー「ベガ」。開発指揮はシボレー「スモールブロック」V8エンジンや、「トライシェビー 」「コルヴェア」などの開発で実績を持つGMのオペレーション担当副社長のエド・コールが執った。しかし、GMにとっては不慣れな小型車、厳しいコストの制約からデビュー後はトラブルが続出。とくに錆の問題が深刻だった。だが、欠陥を隠蔽したフォードと違い、GMは問題が発覚するたびにリコールによる改修を図り、1975年には映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』で有名になる「DMC-12」をのちに手掛けるジョン・デロリアンをチーフに置き、全面的に改良を施した。結果「ベガ」は日本車や西ドイツ車にも引けを取らない素晴らしいクルマとなったが、これまでのトラブルで消費者からの「ベガ」の信頼は失墜しており、販売は回復しなかった(画像:GM)。 拡大画像 1972年型フォード「ピント」のバリエーション。写真左が2ドアステーションワゴンで、右が3ドアハッチバック。奥が2ドアセダンとなる。ここには写っていないがほかに2ドアパネルバンの「セダンデリバリー」が設定されていた。10年間の販売期間中に300万台をリリースし、AMC「グレムリン」やシボレー「ベガ」を超える大ヒットモデルとなる(画像:フォード)。 拡大画像 モデル末期の1979年型フォード「ピント」。欠陥騒動により燃料タンクの位置を改良したモデルだ。「ピント」の欠陥は疑惑として噂として囁かれていたが、1978年に最初の事故被害者の裁判が結審するまで公になることはなく、好調な売り上げを保っていた。また、フォードの責任が追及される頃には「ピント」はモデル末期となっており、販売に影響が出ることはなかった。ただし、フォードのブランドが傷ついたことに変わりがなく、1985年に「トーラス」がヒットするまで業績は低迷することになる(画像:フォード)。 拡大画像 販売好調ながら欠陥車騒動を巻き起こした1971年型フォード「ピント・セダン」(画像:フォード)。 拡大画像 1950~1970年代にかけてアメリカ市場で人気を博した「ビートル」ことフォルクスワーゲン「タイプI」。特に東海岸のエリート層と西海岸の若者から支持を集めた(画像:フォルクスワーゲン)。 拡大画像 1960年代後半から日本車も低価格の割に品質が良いことが徐々にアメリア市場で存在感を示すようになる。そして、1973年のオイルショック以降に本格的に人気に火がついた。写真は日産「ブルーバード」(画像:日産)。 この画像の記事を読む