片扉の狭幅車体にゴツいブレーキ… 京王井の頭線3000系“追憶の初期型”はいま、北陸で最後のとき 読み込み中... 拡大画像 1995年の終わり頃には新形式の1000系が入線し、試運転を行っていた。富士見ヶ丘検車区ではしばし3000系と1000系の第1、2編成が並んでいた。富士見ヶ丘検車区にて許可を得て撮影(1995年12月16日、吉永陽一撮影)。 拡大画像 1000系と3000系のそれぞれ第1編成側面部を撮る。1000系は20m級4ドア車、3000系は18m級3ドア車。両車両輛の製造は33年の開きがあって、車体の進化が興味深い。1995年12月16日 富士見ヶ丘検車区(許可を得て撮影)。 拡大画像 前面部がブルーグリーンの第1編成とアイボリーの第2編成は、同じ狭幅車ながらもテールライト付近の手摺位置に違いがある。広幅車体の第3編成以後は第2編成の手摺位置を踏襲した。1995年12月16日 富士見ヶ丘検車区(許可を得て撮影)。 拡大画像 左は第1編成、右が第2編成。両編成の差異はないものの、「東急車輛」銘板の色が前面部に合わせて紺とアイボリーに塗り分けられている。1995年12月16日 富士見ヶ丘検車区(許可を得て撮影)。 拡大画像 検車区内の階段より若干ハイアングルで捉える。屋根の冷房は1974年から取り付けられた。屋根上のデザインは広幅車と変わらない。1995年12月16日 富士見ヶ丘検車区(許可を得て撮影)。 拡大画像 第1編成の先頭車が履くパイオニアPIII-703形台車。ステンレス車体と同じバッド車から東急車輛へと技術導入され、軽量化を目的とした台車である。同系の台車は東急7000系の導入に始まり、南海電鉄、井の頭線3000系、小田急へと導入例がある。1995年12月16日 富士見ヶ丘検車区(許可を得て撮影)。 拡大画像 第1編成の運転台を見る。基本的な配列は広幅車と同じであるが、計器パネルの配置が若干異なっている。 1995年12月16日 富士見ヶ丘検車区(許可を得て撮影)。 拡大画像 第1編成の渋谷寄りの先頭車から吉祥寺方向を見る。中間車貫通路は幅広で、3000系全編成ともに同じ造りである。ただし片扉と狭幅車体のために若干狭く感じる。1995年12月16日 富士見ヶ丘検車区(許可を得て撮影)。 拡大画像 第1、2編成は側面車端部下に製造銘板を掲げていた。こちらは第2編成で、1963年に製造された。3000系は全編成が東急車輛製造(当時)で造られた。1995年12月16日 富士見ヶ丘検車区(許可を得て撮影)。 拡大画像 朝日を反射させて輝く第2編成のステンレスボディ。車体幅が狭くストンと落ちる片扉の側面を強調して撮影した。前から2両目は5両編成化によって増備された広幅車デハ3100形。1995年12月 高井戸駅。 拡大画像 1996年1月からは「さよなら3751 1962入線」マークを掲げ、井の頭線での最後の走りを見せていた。朝日を浴びる渋谷行き。1996年1月8日 高井戸駅。 拡大画像 吉祥寺駅へと向けて走る第2編成。吉祥寺行きの運用は早朝が多かったと思う。数本走ったあとは途中駅の富士見ヶ丘折り返し運用となっていた。1995年12月3日 三鷹台〜井の頭公園間。 拡大画像 神泉駅のホームはトンネルと踏切に挟まれて3両分しか有効長がな無く、長らく吉祥寺寄り2両をドアカットしていた。1995年9月よりホームが延伸し、5両全てのドアが開くようになる。延伸工事完了直後のホームと第2編成。1995年12月14日 神泉駅。 拡大画像 下りホームからの撮影で、おそらく富士見ヶ丘行きである。平日朝の下り列車は空いていた。この頃は流し撮りに挑戦していたようで、ブレているが車内の雰囲気が掴めるため掲載した。1995年12月20日 神泉駅。 拡大画像 冬の朝日を背に吉祥寺行きの第2編成が駆ける。第1、2編成は渋谷〜富士見ヶ丘間での区間運用のほか他、数本は渋谷〜吉祥寺間を運行した。1995年12月20日 下北沢〜新代田間。 拡大画像 デハ3051の側面部を流し撮りした。パンタグラフは渋谷寄りにある。新製時の台車はPIII-703形であったが、TS-801A形へ履き替えた。片扉の大きな窓から朝ラッシュの車内が窺い知れた。1996年1月9日 駒場東大前駅付近。 拡大画像 渋谷寄りの先頭車はクハ3751である。1990年代になると3000系全編成に前面と同色の側面帯が入った。第1、2編成の側面上部は行先幕が設置されず、写真左手のように無地の板が掲げられていた。1996年1月9日 駒場東大前駅付近。 拡大画像 吉祥寺寄りの中間車デハ3001。パンタグラフだけ吉祥寺寄りにあって、これは第16編成から渋谷寄りへ変更となった。1996年1月9日 駒場東大前駅付近。 拡大画像 広幅車の第13編成の両ドア部。第10編成からドアの窓部は金属支持となっており、9編成までのHゴム支持と雰囲気が異なる。1995年12月 駒場東大前駅。 拡大画像 第1編成の片扉を車内から見る。扉上部はKTR表記のスピーカーがある。片扉の幅は1200mm。両扉は1300mmと若干広い。1995年11月 池ノ上駅。 拡大画像 吉祥寺駅を発車して井の頭公園駅手前の橋梁を渡る第1編成。この橋梁を渡るシーンも1日に数回の出会い。方向幕は縦書きの隷書体であったが、1980年代後半くらいに横書きへと変更となった。1995年11月 井の頭公園駅付近。 拡大画像 渋谷駅到着後はすぐ折り返しとなる。降車ホームのドアも開いた状態。渋谷駅は「渋谷マークシティ」建設に伴いホームが工事中であった。1995年11月 渋谷駅。 拡大画像 運転士が乗り込み、発車準備をしている。3000系は運転室後ろが座席であり、このスタイルは戦前の車輛両から踏襲されてきた。第1編成の左上にはアメリカのバッド社から技術導入のあった証明が英語で記載されていた。1995年11月 渋谷駅。 拡大画像 3000系は「鉄道友の会」より第3回ローレル賞を受賞し、第1編成に記念プレートが掲示されていた。ローレル賞は主に技術面で優れた車両に送られる賞である。1995年11月 渋谷駅。 拡大画像 朝日を浴びて永福町駅に停車中の渋谷行き。「KEIO」マークを先頭部側窓上に配したため、写真左端にあった京王帝都電鉄(KTR)時代の社紋は撤去されていた。永福町駅も現在は様変わりしている。1995年12月 永福町駅。 拡大画像 広幅車の第5編成側面部。片扉の第1、2編成と明らかに異なる側面部である。また第3〜第9編成までのドア窓はHゴム支持である。1995年12月 永福町駅。 拡大画像 背後の下北沢駅から下り勾配を駆け下りて新代田駅へ進入する、京王3000系第1編成の富士見ヶ丘行き。渋谷行きの広幅車(2844mm)と比べて車体幅が狭く2744mmである。下北沢~新代田間(1995年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 第1、2編成の先頭車は最後までパイオニアPIII-703形台車を履いていた。外側ディスクが車輪の外側を覆う独特の形状であった。富士見ヶ丘検車区にて許可を得て撮影(1995年12月16日、吉永陽一撮影)。 拡大画像 現在の下北沢駅周辺の高架橋は架け替えられているが、以前はデッキガーダーであった。下回りを仰ぎ見ることができるので、パイオニアPIII-703形台車を狙った。第1編成の外側ディスクが鈍く輝く(1995年12月、吉永陽一撮影)。 この画像の記事を読む