「そっちの路線は要らない」国に買ってもらえず12年で廃止された「電気鉄道」とは? 今も残る痕跡 読み込み中... 拡大画像 安曇追分駅構内には、ホーム跡のようなコンクリート製の遺構を確認できるが、これが池田鉄道のものなのかどうかは不明。池田鉄道はここから右斜め奥に進んでいた(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 ちょうど、松本から中央線に乗り入れる211系使用の小渕沢行き列車がやってきた(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 安曇追分駅の次、十日市駅の跡。駅跡を示す標柱は長野県道329号線沿いに唐突に設置されているが、当時の地図を見ると、もう少し道から離れた場所にあったようだ。右が北池田方面(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 次の会染駅跡は民家敷地の中にある。駅跡の標柱は、県道から1本西側に入った細い道沿いの民家敷地内に立つ。さらに敷地内には、ホーム跡や駅舎も姿をとどめているとのこと。奥が北池田方面(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 柏木駅跡は池田町多目的研修センターの敷地内に取り込まれている(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 柏木駅の痕跡は見られないが、南に向かって廃線跡と思われる溝と小径が伸びる(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 池田町多目的研修センター(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 南池田駅跡。ホームが民家の土台として使われている。ホーム跡脇の道に線路が敷かれていた。右が北池田方面(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 ホームのスロープが明確に残っている(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 ホームのスロープが明確に残っている(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 最大の遺構である信濃池田駅跡。標柱と池田鉄道の案内板が設置されている(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 木と手前の崩れそうなプレハブ小屋で隠れているが、奥には池田鉄道の本社が残存する(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 信濃池田駅のホーム跡。上に載っている蔵は、現役時代のものではなさそうだ(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 駅跡遠景(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 本社建屋。個人の敷地内にある。現在は使用されていないようだ(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 案内看板。どのようなルートで敷かれていたのか理解できる(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 終点の北池田駅にも遺構が残されている。標柱裏に見られる薄い壁は、ホームの擁壁だと思われる(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 北池田駅跡遠景(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 駅舎があった側の対向式ホームも残る(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 ホーム跡の壁(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 池田鉄道で使用されていた、台枠鋼製・車体木造の木製電車デハ1形とされる写真。日本車輌によりデハ1・デハ2の2両が製造された。モニター屋根を持つ全長約16mの大型車で、関係が深い信濃鉄道のデハ1形電車と同型。池田鉄道廃止数年前の1936(昭和11)年に、信濃鉄道へと譲渡された 拡大画像 信濃鉄道が鉄道省に買収され大糸南線となった際、池田鉄道出身の2両を含め、信濃鉄道の電車には鉄道省の形式「モハ20形」が付与された。その後、モハ20形は各地の地方鉄道に譲渡されたが、元池田鉄道の電車は、それぞれ上田丸子電鉄(現:上田交通)・松本電鉄(現:アルピコ交通)に渡った。なお上田丸子電鉄には信濃鉄道の車両も数量譲渡されている。写真は上田丸子電鉄で倉庫として使用されていた頃の、元信濃鉄道もしくは元池田鉄道の電車 拡大画像 上田丸子電鉄と松本電鉄では、譲り受けたのちに鋼製の台枠を生かして近代的な車体を載せて鋼製化。どちらも1986(昭和61)年まで使用された。写真は上田交通時代、廃車後に留置されていたモ5372で、池田鉄道デハ1の台枠に元小田急クハ1650形の車体を組み合わせていた 拡大画像 池田鉄道の駅構内略図。安曇追分駅を含めわずか7駅の小鉄道だが、そのうち3駅で明確にホーム跡が残っているのは驚きである(遠藤イヅル作成) 拡大画像 高瀬川の左岸をゆく大糸線を走る特急「あずさ」。かつては右岸にも池田鉄道が通っていた(画像:PIXTA) 拡大画像 池田鉄道の起点だった大糸線の安曇追分駅。現在も池田鉄道開業と同年の1926(大正15)年築の駅舎が建っている(遠藤イヅル撮影) 拡大画像 信濃池田駅のホーム跡。ホーム先にもスロープが残る(遠藤イヅル撮影) この画像の記事を読む