「そっちの路線は要らない」国に買ってもらえず12年で廃止された「電気鉄道」とは? 今も残る痕跡
長野県にはたった12年で廃止された池田鉄道という小さな鉄道路線がありました。戦前に廃止され、すでに90年近くが経過していますが、当時を偲ばせる数多くの遺構が残っています。どのような鉄道だったのでしょうか。
しまった!鉄道敷いてもらえばよかった…後悔の末に生まれた池田鉄道
旧国鉄のJRをはじめ大手私鉄や地方鉄道など合計200社以上の鉄道会社が存在する日本の鉄道。しかしモータリゼーションの発展で昭和30~40年代をピークに旅客輸送・貨物輸送量が減少に転じて以降は、地方の鉄道路線のみならず、国鉄の路線廃止も相次ぎました。

ところがそれよりもずっと前、明治や大正、戦前の昭和期に廃止された鉄道路線も少なからずありました。長野県中信エリアを走っていた「池田鉄道」もそのひとつです。
池田鉄道は1926(大正15)年に、現在のJR大糸線 安曇追分駅(安曇野市)から、池田町にあった北池田駅のあいだで開業しました。しかしわずか12年後の1938(昭和13)年には全線が廃止されたという短命の鉄道です。
ではどのような経緯で池田鉄道は開業し、そして廃止されてしまったのでしょうか。
当時の池田町には大きな製糸工場が数多く建っており、このエリアにおける産業・経済の中心地でした。しかし、1916(大正5)年に松本~信濃大町間を開業した信濃鉄道(現:JR大糸線)の線路は、池田町のある高瀬川を挟んだ左岸に敷かれていました。
じつは本来の計画では、地域の中心だった池田町を通す予定でした。信濃鉄道が高瀬川の左岸を通ることになったのは、千国街道の古い宿場だった池田町の住民が鉄道誘致に積極的ではなかったため、という話が残っています。一方の信濃鉄道としては、建物が数多く建っていた池田町の用地買収には費用がかかり、勾配なども多く工事費も上がってしまう事情がありました。
しかし、いざ信濃鉄道が開通して沿線地域の活性化がはじまると、池田町の人々は鉄道路線がない焦りや、不便さを感じるようになりました。
そこで地元の安曇銀行頭取だった内山 昇氏を筆頭とした池田町と会染村(現:池田町)の地元有力者は、信濃鉄道の駅から池田町を結ぶ鉄道路線計画を立案しました。そして1925(大正14)年8月、社長に内山氏、副社長に池田町長の平林仲次郎氏を据えて池田鉄道を設立します。
2か月後の10月には建設工事を信濃鉄道に発注、12月には三菱商事を介してレールや電車2両を発注したほか、鉄道省から橋桁などの払い下げ認可を受け、翌年1月には工事をスタート。そして早くも9月にはスピード開業を果たしています。
路線距離は6.9km(4里25鎖)、十日市、会染、柏木、南池田、信濃池田、北池田の6駅を置きました。1929(昭和4)年時点での運転本数は1日20往復、所要時間は14分でした。蒸気鉄道が主流の時代に、信濃鉄道と同様、直流1500Vの電化路線したのは、将来的には同鉄道への乗り入れを考えていたためと思われます。
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