渋谷駅の顔だった「地下鉄が地上3階から発車するビル」なぜできた? 解体直前~現在の記録 読み込み中... 拡大画像 西館は銀座線の部分を残して解体が進んだ。この状態でも回送電車が走っている。写真は玉電ビル時代の柱と、東京高速鉄道の駅として開業した当時のタイルが露出したところ。背後は桜丘地区で建設中の高層ビルである(2022年8月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 西館の3階〜4階の途中にある踊り場は妙に低い梁が特徴である。4階は事務所となっており立ち入ることができない(吉永陽一撮影)。 拡大画像 京王井の頭線の改札口方向から見た3階の銀座線旧改札口。利用者で混雑した空間もがらんとしている。太い柱は建設中止となった玉電ビル時代のものと推測(吉永陽一撮影)。 拡大画像 銀座線旧改札口から京王井の頭線の改札口方向を見る。撮影時、ベーカリーカフェがまだ営業していた(吉永陽一撮影)。 拡大画像 JR山手線側にあった銀座線旧改札口へ至る階段。利用者は3階の改札口まで通れたが、4階は事務所のため元々立入禁止であった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 銀座線の改札口があった場所は完全に覆われてしまった。工事囲いの位置に自動改札機が並び、その先に10数段の階段を上って乗車ホームがあった。手前の柱と梁は玉電ビル時代のものと思われる(吉永陽一撮影)。 拡大画像 銀座線旧改札口のうち、京王井の頭線改札口方向の階段。右側は渋谷マークシティとつながる連絡通路から登ってくる階段。左側の上り階段は百貨店へ至る。不自然な梁が出ているのは、戦後増築した箇所の繋ぎ目だろうか(吉永陽一撮影)。 拡大画像 旧改札口から階段を上る。4階が事務所のために回数表示は通常なのに対して、売場表示は「↓3階|↑5階」となっている(吉永陽一撮影)。 拡大画像 西館閉店前の階段踊り場は「#東横デパート壁ドーン」というアートイベントのキャンバスとなった。アーティストが描いた踊り場の姿(吉永陽一撮影)。 拡大画像 本文で紹介した怪しい梁の部分。低い梁は高さ170cmもなく、その奥には謎の古い扉があった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 低い梁の奥側へ。この無駄に思える空間が気になる。増改築して不必要になった「トマソン」のようなものだと感じた。この梁は西側にあった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 3階から仰ぎ見る低い梁。玉電ビルが工事中止となった状態の、西側から撮影された写真資料が乏しく、この梁が戦前からあったのか謎なままビルが解体されてしまった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 館内では東横店ファイナルイベントを開催していた。この乗りもののオブジェは、1951年から2年間、工事中止となった玉電ビル仮屋上から、山手線を跨いで東横百貨店まで運行していた子供用ロープウェイ「ひばり号」。東横店屋上遊戯物であり、東横店の屋上から乗車し、仮屋上では降りずに再び東横店へ戻る運行。まだ高い建物がなかった時代、眺望もよく子供たちの大人気の的だった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 9階は劇場「東横ホール」のエントランスであったが、東横ホールの終了後はレストラン街となった。東横ホールは10階〜11階が客席で、名残と思しき階段がエスカレーター横にあった。階段の先はトイレ。10階へのエスカレーターもあったが、どの位置にあったか忘れてしまった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 10階へ至る階段は途中のトイレまでしか行けず、事務所エリアとなっていてうかがい知れない。20年ほど前はホールのあった空間に簡易郵便局や旅行代理店があった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 2020年の緊急事態宣言中、ハチ公はマスクをかけられていた。背後の西館は東横店閉館直後で、まだ店内の明かりが見られた(吉永陽一撮影)。 拡大画像 東館のあった場所から西館の裏側を見る。東西南館があったときは「TOKYU」ロゴの直下に、山手線を跨ぐ回廊タイプの中央館が連結されており、この角度からビルの「お尻」を見ることができなかった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 青ガエルこと東急旧5000系が、ハチ公前から大館へ向けて搬出されるところ。西館のハチ公前側(スクランブル交差点側)は1980年代後半のリニューアル工事で壁面に覆われてたが、坂倉準三が設計し竣工した当時は窓がずらっと並ぶデザインであった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 解体前のいたずら書きではなく、れっきとしたアートイベントなのでご安心を。1階の東急マークシティ前横断歩道の先にある階段。梁の縁部分が干渉するために手摺が設置されていた(吉永陽一撮影)。 拡大画像 奥にある渋谷マークシティ内の京王井の頭線改札口と西館を結ぶ通路には大窓があって、スクランブル交差点の観察場所となっていた。この通路は渋谷マークシティ建設時に激変し、確かスロープではなく階段であったように記憶している(吉永陽一撮影)。 拡大画像 銀座線旧改札口へ至る階段踊り場から見下ろした2階部分。東横店閉店後の西館は2階が連絡通路となっていた。床面の白黒の格子状タイルは、まだ玉電が走っていた昭和40年代、既にこのタイルであったという。少なくとも半世紀はこの床面であった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 「2階」と掲げられた表示。埃がうっすらと被り、長い月日を感じさせる。この階数表示に注目が集まったのは、おそらく解体前の最後であったことだろう。階段脇の隅の方にさりげなく表示されていた(吉永陽一撮影)。 拡大画像 西館そのものへの立ち入りが最後となる9月23日から3日間は、東急主催のファイナルイベントとして、アーティストによるペインティング「#391045428(サンキュートーヨコシブヤ)」が開催され、館内はグラフィティアートで埋め尽くされた。ここは1階ハチ公前広場から登ってくる階段踊り場(吉永陽一撮影)。 拡大画像 1階のモヤイ像広場とハチ公前広場を結ぶ南北連絡通路となった空間。東横店閉店前はアンテナショップや化粧品売場など華やかな売場が軒を連ねていた。シャッターもアートイベントのキャンバスとなった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 玉川改札の隣には「事務室」と掲げられた重い鉄扉があった。何の用途のためにあったのか分からなかったが、表示はかなり年代モノであった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 廃止直前の山手線玉川改札。山手線外回りの渋谷駅は左側の片ホーム構造で、西館に面して玉川改札があって、階段もなくフラットで西館や京王井の頭線へ行けるので便利であった。ただ、構造的に内回りホームにはこの改札がなく、注意せねばならなかった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 玉川改札を背にして渋谷マークシティ(京王井の頭線改札口)方向を見る。左奥の階段付近は玉電乗り場があった場所で、格子状タイルが切れている地点に改札口があった。渋谷マークシティ建設時に大改装されて通路となった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 2階フロア。玉川改札の横、ハチ公前広場から上ってくる階段である。3階は銀座線旧改札口で、朝夕のラッシュ時はこの階段をひっきりなしに人が行き交った(吉永陽一撮影)。 拡大画像 玉川改札前の空間からJR山手線中央口へ至る上り階段方向を見る。その階段とモザイク状の床面の通路は現在でも通行できる。化粧板で覆われているが、太い柱と梁は玉電ビル時代のものである(吉永陽一撮影)。 拡大画像 完全に閉館する日の外観。西館と手前の南館は共に坂倉準三の設計で、南館もランダムに配置された窓が印象的なビルであった。坂倉は南館竣工前に亡くなり、この建物が遺作となった(吉永陽一撮影)。 拡大画像 玉電ビル時代と「東急会館」増築時のつなぎ目は外観から確認できるのか――南側の壁面を見ると、4階部分までとそれ以上の階と窓配置が異なっており、この辺りが増築の境目ではないかと推測した(吉永陽一撮影)。 拡大画像 JR渋谷駅では玉川改札のカウントダウンをしていた。全ての営業が終了した瞬間、自動改札機は赤く点灯して閉鎖された(吉永陽一撮影)。 拡大画像 玉川改札が営業終了した時点で、西館は通路としての役目も終了。我々一般利用者は西館敷地内から中央口通路へと促されてシャッターが閉まる。このシャッターは二度と開くことはない(吉永陽一撮影)。 拡大画像 西館解体に伴い、渋谷マークシティならびに京王井の頭線改札口への仮設通路が整備された。始発電車を前にして、最終チェックが終わったところ(吉永陽一撮影)。 拡大画像 この仮設通路は「しぶにしデッキ」と命名されている。多くの利用者をさばくために幅広となった通路である(吉永陽一撮影)。 拡大画像 西館が閉鎖された朝、留置線から銀座線の回送電車がいつものように建物内を通過していく。解体作業は銀座線の回送電車と、隣接する山手線を平常運転させながら実施した(吉永陽一撮影)。 拡大画像 解体工事のためビル全体をすっぽり覆われた西館と南館。南館は一足先に解体作業が始まり、写真では2階分低くなっている。手前の吹き抜け通路は、東急プラザ跡地を開発した「渋谷フクラス」へ通ずるデッキで、仮設通路「しぶにしデッキ」へ合流している(吉永陽一撮影)。 拡大画像 約1年後の2022年の姿。南館は4階部分で一旦解体をストップしている。西館の解体は進行し、5階部分まで解体された時点での撮影(吉永陽一撮影)。 拡大画像 手前は渋谷マークシティ建設時に整備された連絡通路。西館に直結していたが、建物は既にない。背後で露出した東京高速鉄道の躯体と柱タイルは1938年開業時のもの。84年後に現れた。柱にはリベット打ちの鉄骨も見える。左手前の柱も玉電ビルのもの(吉永陽一撮影)。 拡大画像 南側から。手前は「しぶにしデッキ」。こちら側の柱はタイルが確認できなかった。銀座線複線分の線路を覆う頑丈な躯体である(吉永陽一撮影)。 拡大画像 4階部分へと低くなった西館。南館とほぼ同じ高さとなり、渋谷駅の空が広く感じられる。西館は戦後すぐの仮屋上時代と同じ高さになった。東館は既に無いが、ロープウェイ「ひばり号」が宙を泳いだ姿が何となく浮かんでくる(吉永陽一撮影)。 拡大画像 東急東横店西館。露わになっていた84年前の構造体はあっという間に工事囲いされた。今後はこのように回送電車が走る状態を維持しながら、躯体を解体していくことになる(2022年9月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 在りし日の東急東横店西館。坂倉準三設計の外観はのっぺりとした壁面に小窓が点在するのが特徴だ。その小窓の一部は館内の階段にある。私はずっと、城壁の銃眼(狭間)みたいに感じていた(2020年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 玉川改札最後のとき。JR山手線の外回り最終電車が到着したところ。降車客が改札を通った時点でこの改札口は役目を終えた(2020年9月、吉永陽一撮影)。 この画像の記事を読む