日本初の鉄道はなぜ「新橋」からだったか 初代新橋駅に汐留の地が選ばれた理由 読み込み中... 拡大画像 1904(明治37)年、海軍の気球から撮影した初代新橋駅の空撮写真。手前にある貨車の配置が興味深い。小さい転車台で貨車を方向転換させて荷捌き場へ手押ししていたのだろう。写真右端から手前にかけては汐留川が流れ、右端のアーチ橋が新橋である。路面電車も写る。奥には建設中の烏森(現・JR新橋)駅が見える(写真提供:宮内庁書陵部図書課)。 拡大画像 宝来橋交差点歩道橋から見る旧新橋停車場。1872年の開業時は一段と高い建物であった駅舎も、復元された姿を見ると民家に見えてしまうほど、周囲の建物が高くなっている(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 正面玄関前には竣工当時の写真が掲示されており、復元駅舎と比較できる(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 復元駅舎の左面から現代の高層ビルを比較する。建物のデザインはこうも進化していくのかと、思わず見上げてしまう光景だ。窓の寸法や装飾も古写真から割り出して再現されている(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 0キロポストではなく“0マイルポスト”。開業時の単位はマイルであった。1936年に鉄道省(当時)が史跡として記念碑と双頭レールを保存。1958年に鉄道記念物「0哩標識」となり、国の史跡に指定された(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 復元されたホームと双頭レール。ホームは発掘された土台部分の上に造られ、屋根部分は開業当時の姿を再現しつつ骨組みだけにし、開放的なデザインとなっている(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 双頭レールと「チェア」と呼ぶ固定金具。双頭レールは一般的な平底レールと異なり、このようにして固定し、バラストで隠すように覆っていた(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 ホーム側から見た旧新橋停車場の復元駅舎。1階は出札口など駅務関係施設があり、復元駅舎にはビアレストランが入っていた。2階は特別展示室で、ちょうど鉄道写真家の南 正時氏の蒸気機関車写真展が開催されていた(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 かつてのホームの延長上にあった位置から駅舎側を見、このように駅舎が見えていたのだなと、当時に思いを馳せてみた(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 復元ホームはイベント時などに上がれるようで、階段が設けられている。ホームの脇は広場となっており休憩もできる(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 復元駅舎は開業当時の写真を元にしたとのことで、窓部や雨樋などの装飾、欄干、石材の風味や色合いも、まるで現物から模写したように精巧に造られている(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 復元された旧新橋駅舎の全景。発掘された基礎の上にかさ上げして、現代の耐震基準や建築基準法に則って「新築」された。基礎の上に新築されたので、これは復元なのか、どこまで当時を再現するのか、歴史を歪めることにならないかといった議論が、復元プロジェクト内外であったという(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 「汐留シオサイト」内旧新橋停車場の前にある案内板地図からは、新旧の新橋駅の位置と、汐留川だった名残が確認できる。高架線路は市街地を貫いて建設された(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 復元ホームの延長上には、発掘された開業当時の土台部分が見られる。一番下は凝灰岩の基礎石、その上に切石を長辺と短辺交互に積んでいたのが分かる。さらに上辺には笠石があったが、発掘時には失われていたという(2022年12月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 正面玄関前の下を見ると、発掘調査で奇跡的に現れた入口の階段ステップがそのままの形で保存されている。この階段を踏んで多くの人々が“陸蒸気”に乗車した(2022年12月、吉永陽一撮影)。 この画像の記事を読む