ホンダF1の「怖~いハナシ」創成期の不幸な事故と黄金期の黒星にまつわる「奇妙な縁」後編 読み込み中... 拡大画像 本田宗一郎の指示により日本の本田技術研究所が完成させた自然吸気空冷エンジンを積むRA302。エンジン設計はのちに3代目社長となる久米是志、シャシーは佐野彰一が手掛けた。冷却性能の問題からトラブルが多発し、2周も走ればオーバーヒートするような代物だった。エンジン設計の久米は冷却の問題がどうやっても解決できないため1か月ほど出社を拒否したほど。レース出走を強行する本田に対して、現地に輸送後にオイルクーラーを増設したがそれでも問題は解決できなかった(画像:Morio CC BY-SA 3.0、via Wikimedia Commons)。 拡大画像 イギリス・ロンドン郊外に中村良夫監督に率いるホンダ ・レーシングチームのガレージが設立。ローラからシャシー提供を受け、日本の研究所で開発されたエンジンを搭載したRA302を製造した(画像:ホンダ)。 拡大画像 RA302でフランスGPを走るジョー・シュレッサー。この直後の「ルーアンの悲劇」で彼は帰らぬ人となる。なお、シュレッサーの事故後もレースは続き、トップグループを走るRA301を駆るジョン・サーティースは、マーシャルが撒いた消化剤を顔に浴びたことでゴーグル交換のため急遽ピットストップ。2位入賞で終わり、優勝のチャンスを逃した(画像:ホンダ)。 拡大画像 1988年のF1世界選手権で全16戦中15勝を挙げたマクラーレン・ホンダMP4/4。ホンダエンジン全戦全勝の前人未到の記録は第12戦イタリアGPの不運なトラブルで果たせずに終わる(画像:Morio CC BY-SA 3.0、via Wikimedia Commons)。 拡大画像 ホンダを一代で大企業へと成長させた叩き上げの技術者であり、当時社長の座にあった本田宗一郎。オートバイメーカーから自動車製造への進出と数多くの功績を残す一方、自然吸気の空冷エンジンに固執し、市販車開発でも若手エンジニアと対立した(画像:パブリック・ドメイン)。 拡大画像 1964年のル・マン24時間耐久レースに出場するジョー・シュレッサー(写真左側から2人目)。1952年にアマチュアレーサーとしてラリーに参加し、1957年にプロレーサーに転向。スポーツカーレースやル・マン24時間耐久レースで活躍したのち、運命のF1出走となった(画像:Copyrighted free use)。 この画像の記事を読む