ホンダF1の「怖~いハナシ」創成期の不幸な事故と黄金期の黒星にまつわる「奇妙な縁」後編

1988年シーズンのF1は、マクラーレン・ホンダの全戦全勝が確実視されていたものの、その夢は不運なトラブルによって潰えます。その原因となったのは20年前のフランスGPで事故死したのと同じ名を持つドライバーでした。

マクラーレン・ホンダの全戦全勝を阻んだ因縁のドライバー

 1988年のF1世界選手権はマクラーレン・ホンダが全戦全勝に王手をかけていましたが、第12戦イタリアGPで2名いるドライバーのうち、アラン・プロストはマシントラブル、残るアイルトン・セナも残り2週を残して周回遅れの他チームのマシンと接触事故を起こしてリタイヤしてしまいました。

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1988年のF1世界選手権で全16戦中15勝を挙げたマクラーレン・ホンダMP4/4。ホンダエンジン全戦全勝の前人未到の記録は第12戦イタリアGPの不運なトラブルで果たせずに終わる(画像:Morio CC BY-SA 3.0、via Wikimedia Commons)。

ある意味、マクラーレン・ホンダにとっては不運に見舞われた戦いでしたが、セナの事故の相手というのが、20年前のフランスGPにおいてホンダRA302で事故死したジョー・シュレッサーの甥という因縁がありました。そして、1968年の事故の背景には社長の本田宗一郎とチーム監督の中村良夫との確執があったのです。

 前編ではレース予算の縮小により、イギリスに中村をリーダーとするホンダ ・レーシングチームのガレージが設立され、日本の研究所から独立して活動するところまでを語りました。今回はその続きとなります。

 1967年、ホンダ本社から裁量権を得て、イギリスにF1開発の拠点を移した中村が最初に取り組んだのは、マシンの軽量化でした。充分な人員を避けなかったこともあり、ドライバーのジョン・サーティースのコネでF1での経験が豊富なレーシング・コンストラクターのローラがシャシーを提供することが決まりました。

 ローラ製シャシーの採用により、ニューマシン「RA300」の車重は先代モデルのRA273よりも110kg軽い610kgになりました。最低重量付近にあるライバル車よりもまだ100kgも重かったものの、これにより戦闘力が大幅に向上。デビュー戦の第9戦イタリアGPでは見事優勝し、第11戦メキシコGPでも4位入賞を果たします。

 翌年の1968年に入ると、前年の結果に手応えを感じていた中村は、改良型RA301の開発に着手。シャシーは引き続きローラが製作を担当し、エンジンは本田の横槍を嫌った中村が日本から技術者を呼び寄せてイギリスで設計し、完成した設計図をもとに日本で製造される予定でした。

 しかし、この軽量高出力のV型12気筒エンジンは製造されることなく終わります。なぜなら、本田が社長権限で製造中止を命じたからです。それというのも日本の研究所では、本田が周囲の反対を押し切って推進していたF1用の自然空冷エンジンと、それを搭載するマシンの開発を進めていたからでした。

【本田宗一郎のこだわり!】自然吸気の空冷エンジンF1マシンが走る姿(写真)

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