「フェアレディZの父」こそ社長に相応しかった! ゴーンすら染まった日産の「負の連鎖」とは 読み込み中... 拡大画像 ダットサン「410」(国内市場では2代目「ブルーバード」として販売)。日本国内ではピニンファリーナのスタイリングが受けなかったものの、北米市場ではヒット作となった。 拡大画像 ダットサン「510」(国内市場では3代目「ブルーバード」として販売)。直線基調のスリークなスタイリングとBMWに匹敵する高性能スポーツセダンでありながら、ドイツ製競合車の4割以下という低価格で販売され、北米では若者を中心にヒット作となった。 拡大画像 「スポーツカーは売れない」との常識を覆し、北米市場で爆発的なヒットを飛ばしたダットサン「240Z」(国内市場では初代「フェアレディZ」として販売)。このクルマの成功で北米におけるダットサン・ブランドは完全に定着した。1958年にわずか83台から始まった日産の対米輸出は、片山氏赴任後の1960年に1600台に増え、彼が北米日産社長の退任した1977年には48万8217台へと急増した。 拡大画像 ダットサン「240Z」のリアビュー。このクルマの開発時、片山氏は「ジャガー『Eタイプ』のようなクローズドボディの美しいスタイリングにしろ」と技術陣に命じた。その言葉の通り、両車のスタイリングはよく似ているが、『Eタイプ』の新車価格は1万ドル、対して「240Z」が3600ドルと安価であったことがこのクルマの人気の秘密だった。「240Z」の成功により、MGやトライアンフ、オースチン・ヒーレーなどのイギリス製オープンスポーツは市場から姿を消し、ポルシェやアルファロメオも大打撃を受けた。 拡大画像 北米市場で商業的に大きな成功を収めた初代(S30型)ダットサン 「240Z」と、現行型となる7代目(RZ34型)日産「Z」(写真はともに北米仕様)。 拡大画像 「フェアレディZ」の父として世界的に有名な片山豊氏。1960年に米国日産(NMC)を設立し、1965~1977年まで北米日産社長を務めた。1998年に米国自動車殿堂入りを果たす。2015年没。生前はフランクな人柄で世界中のファンから慕われていた。 拡大画像 北米市場で最初のヒット作となった3代目(120型)ダットサン「トラック」。 この画像の記事を読む