終戦前日の米軍「群馬県伊勢崎市に爆弾落とす」なぜ? 100機近くのB-29が出向いた納得の理由とは 読み込み中... 拡大画像 爆撃がおわった後の伊勢崎駅前の様子(市の資料を斎藤雅道が撮影) 拡大画像 焼夷弾投下直後の様子を絵にして回想したもの(市の資料を斎藤雅道が撮影) 拡大画像 赤いエリアが当日に焼失した区域(市の資料を斎藤雅道が撮影) 拡大画像 現在の伊勢崎駅。2010年代の高架化などで木造駅舎から現在の姿に。周辺の道路なども大きく変わっている(斎藤雅道撮影) 拡大画像 伊勢崎駅近くの道路も以前は住宅や店舗が並んでいたが、現在は道幅も広がり、見通しがよくなってしまっており、当時の名残はない(斎藤雅道撮影) 拡大画像 当時北国民学校が経っていた場所に現在もある北小学校。現在の校舎は戦後に建造された鉄筋コンクリートの建物をさらに建て替えたもの。手前の火のみ櫓は明治時代のもので空襲地の焦げあともあるそうだが、撮影当日は改修工事のため確認できず(斎藤雅道撮影) 拡大画像 右手の建物が織物会館。この辺りも2010年代までは住宅が立ち並んでいたが、現在は大きく姿が変わっている。 拡大画像 現在はいせさき明治館という名で呼ばれる、黒羽根内科医院旧館。明治時代の木造建築物として現存している。同建物は爆撃エリアの場所にあるが、これは伊勢崎市に寄贈された際にこの場所に移動したためとのこと(斎藤雅道撮影) 拡大画像 親方本店にある渋沢栄一の書(斎藤雅道撮影) 拡大画像 親方本店にある渋沢栄一の書(斎藤雅道撮影) 拡大画像 親方本店と通りを挟んで反対側にあるお茶屋。親玉本店と同じく空襲当時も営業していた。現在は当時の店舗を建て直しているが、旧店舗に関しては無風だったため、空襲時は被災を免れたそうだ(斎藤雅道撮影) 拡大画像 同じく延焼による被災を免れた伊勢崎神社(斎藤雅道撮影) 拡大画像 中島飛行機ゆかりの神社で同社のプロペラも奉納されている(斎藤雅道撮影) 拡大画像 防空壕があった近くにある伊勢崎市立図書館近(斎藤雅道撮影) 拡大画像 当時の空襲の名残を残す場所(斎藤雅道撮影) 拡大画像 空襲後の街の様子(斎藤雅道撮影) 拡大画像 B-29イメージ(画像:アメリカ空軍) 拡大画像 話を聞いた親方本店(斎藤雅道撮影) 拡大画像 資料館に飾られたM47焼夷弾のレプリカ(斎藤雅道撮影) この画像の記事を読む