終戦前日の米軍「群馬県伊勢崎市に爆弾落とす」なぜ? 100機近くのB-29が出向いた納得の理由とは

終戦前日にいくつかの都市でB-29による空襲が発生しました「伊勢崎空襲」もそのひとつです。

「中島飛行機のついで」それは違うらしい

 2025年8月15日で終戦から80周年を迎えます。しかし、日本がポツダム宣言を受諾する前夜、1945年8月14日深夜から翌15日未明にかけて、アメリカ軍のB-29による空襲を受けた都市がいくつか存在します。現在の群馬県伊勢崎市で行われた空襲「伊勢崎空襲」も、そのひとつです。

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B-29イメージ(画像:アメリカ空軍)

 地元の方々に話を聞くと、周辺の太田市や前橋市などには、陸海軍用機の生産開発を担っていた中島飛行機の拠点があり、伊勢崎にも同社の工場があったことから、「中島飛行機を爆撃した際、余った爆弾を落としていったらしい」と、父母や祖父母から聞いたという声が多くあります。しかし、図書館などで市史や当時の新聞を確認すると、実際には伊勢崎市街地を明確に狙った空襲であったことが分かります。

 アメリカ軍は当時、日本の航空機や車両に関する工場を徹底的に攻撃し、生産能力を著しく削いでいました。しかし日本はこの損害を生産拠点が分散することで対応します。対し、アメリカ軍では、鉄道インフラを活用して兵器の生産継続や大規模工場の機能移転が行われていたことを偵察により確認し、1945年7月には全国180都市を攻撃対象として選定していました。

 その中でも伊勢崎は、いくつかの町工場や小規模な繊維工場が点在しており、郊外の中島飛行機工場への部品提供も行っていたとみられていました。また、伊勢崎駅は国鉄伊勢崎線(現・JR両毛線)と東武伊勢崎線が乗り入れる、重要な輸送インフラとして機能していました。

 こうした「継戦能力」を削ぐために、重要な輸送拠点である伊勢崎駅や中島飛行機を支える関連工場、そして周辺の住宅地に対して、広範囲かつ無差別に爆撃が行われました。これは明確な「戦略爆撃」であり、グアムを拠点としていたアメリカ陸軍航空隊第73航空団および第314航空団のB-29計93機によって、大規模に実施されています。

【当時の様子…】これが、爆撃が終わった後の街です(画像)

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