凝りに凝ってる100年前の鉄道高架 万世橋付近の中央線 レンガ高架橋の形状が違うワケ 読み込み中... 拡大画像 万世橋~神田~東京間の高架橋は鉄筋コンクリート製。第2小柳町橋高架橋を走るのは201系電車の東京行き。紅梅河岸高架橋や万世橋高架橋と比較すると装飾は控え目だ。一番手前はレンガタイルがごっそりと剥がれ、コンクリートの地が現れていた(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 万世橋高架橋。橋端部は西洋古代建築を連想させる欄干や花崗岩の装飾、アーチ径間のメダリオンと呼ばれる円形装飾などが随所に散りばめられている。この姿は2022年現在でも変化ない(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 中央線は旧万世橋~神田間が曲線となっており、アーチ高架橋が弧を描いている。第2小柳町橋高架橋下は商店ではなく、駐車場や倉庫となっていて静かであった(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 一歩入った路地からレンガタイルを施された鉄筋コンクリートアーチ橋をチラ見する。今から思えばレンガ色の高架橋とオレンジ色の201系は親和性があった(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 解体前の交通博物館ビル。ガラス張りの曲面は階段部分で、正面と裏の2か所に配置されていた。写真は御茶ノ水方向の裏手である。ビルは戦前のモダニズム建築で、バウハウスの影響を受けているとのこと(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 交通博物館正面玄関を横から見る。E233系電車が過ぎ去っていく。看板であったD51蒸気機関車と0系新幹線の頭はもうない。階段室の電灯はまだ点灯していたが、これもビル建設時からのものらしい(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 交通博物館正面側の階段部分を見る。現役時はこの右手に別館の保存車両置き場があったため、敷地外からこの角度で観察することはできなかったと思う。2階の途切れた通路と手摺は、別館への通路だったか(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 名称板が剥がされてもなお、うっすらと「交通博物館 JR」の文字が残る(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 2022年現在の万世橋高架橋。神田川から見、奥が昌平橋。万世橋高架橋は商業施設「マーチエキュート神田万世橋」となっている。アーチの脚部には隅石という花崗岩の装飾がされているが、反対側はこの装飾がされていない(2022年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 万世橋高架橋の古い名残はないかと探して見つけた、「万世橋架道橋」のペンキ塗り。奥のモルタルの小屋は、高架下にあった小さな飲み屋街の共同便所跡。そういえばここはかつて臭かったが、今はもう何も臭わない(2022年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 交通博物館のビルが解体され、2013年にJR神田万世橋ビルが竣工。階段部分など旧万世橋駅の残存施設は「マーチエキュート神田万世橋」で活用されている。手前の地面のガラスから旧万世橋駅舎の基礎を覗ける(2022年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 交通博物館のビルを解体して現れた旧万世橋駅舎の基礎。明治末期の建築物の基礎が令和の時代に見られるのは嬉しい(2022年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 紅梅河岸高架橋の御茶ノ水側は淡路坂となっており、高架橋は頑丈なコンクリートで補強されている。所々アンカーが打ち込まれているのは耐震補強だろう。右側に迫り出しているのは架線柱土台の痕跡(2022年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 スマホでもよく撮れる時代となった。ちょいブレはご了承されたし。神田駅部分の第1鍛治橋高架橋はラーメン構造である。神田駅は改良工事が行われて、一部は覆いがなされている(2022年7月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 神田駅の高架橋にレアな209系電車1000番台が停車していた。高架橋のアーチは居酒屋にも活用されており、店内によってはアーチ内部の構造も観察できる。釜飯のおぎのやの居酒屋「弦」があった(2022年7月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 神田駅西口改札の南側にある新石町橋高架橋。ここから南側はアーチ構造である(2022年7月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 日本最古の高架橋である紅梅河岸高架橋。右端に写る鉄橋は1909年ドイツ・ハーコート社製である(2009年3月、吉永陽一撮影)。 拡大画像 神田駅のある第2鍛冶町橋高架橋は、アーチ構造ではなく桁式構造。四角い空間が惜しみなく店舗と倉庫に利用されている。右端の架線柱は1919年開通時から残存していたもの(2009年3月、吉永陽一撮影)。 この画像の記事を読む