川を買って路面電車通りに 駅と甲子園球場、甲子園線を生んだ阪神電鉄の「大きな賭け」 読み込み中... 拡大画像 かつて枝川が分流していた近辺。武庫川も河川改修によって河道が広く直線になった(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 上甲子園交差点。甲子園線はこの交差点で国道線と分かれ、道路上を写真左奥(甲子園駅方面)へ進んでいた。右手の「かごの屋」には乗務員の詰所が建っていた(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 甲子園五番町近辺で道路は少しカーブを描く。川の流路の名残で、電車も同じように曲がっていた(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 近隣には「阪神タイガースコラボ」のコンビニエンスストアも複数ある(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 甲子園駅の北側。阪神本線の開業当時、この場所は川をまたぐ鉄橋があるのみで、甲子園駅すらなかった(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 甲子園停留所の跡地南側にバスターミナルが整備された。川が道路に変わる前には、写真左側の裏手に当時小学生だった森繁久弥さんが住んでいたという(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 吉野家COROWA甲子園店のオリジナルメニュー「オム豚丼」。近隣には阪神タイガースに因んだメニューのある店が多数ある(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 国道43号高架橋下のボルト4つ組は、電車の架線がつられていた名残といわれている(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 甲子園球場の壁を覆うツタは、1924年の球場完成後まもなく植えられた。この地の歴史を100年近く見守っている(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 かつて三角州が広がっていた甲子園球場(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 甲子園球場内の弁当は、神戸駅弁の「淡路屋」が製造している。なおこの「糸井嘉男の超人チャーハン弁当」は、あまりのおいしさに糸井選手が試作品を持ち帰ったといわれている(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 この地図の18-24番側の右手は枝川、後に甲子園線が走った。右手の5~6番側の路上が申川(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 阪神甲子園~ららぽーと甲子園(旧・阪神パーク)間では、甲子園線は甲子園球場の右手を南下していた(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 浜甲子園(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 阪神甲子園線の終点・浜甲子園停留所跡地。臨時駐車場(高校野球の開催時などに開放)や子会社・阪神園芸の本社がある(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 浜甲子園停留所跡地の駐車場(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 190709_hnsnkusen_27.jpg 浜甲子園バス停はいまでもかなりの本数が確保されている(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 かつては浜甲子園停留所から線路は右手に曲がり中津浜まで伸びていた。1945年に戦争により休止。その後復活しないまま全線廃止を迎えた(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 枝川は浜甲子園から300mほど先で海に注いでいた(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 尼崎市の「水明公園」に、阪神国道線・甲子園線などを走った車両が保存されている(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 地図を比較すると、武庫川から西側に分かれる川がほぼそのまま電車のルートになっているのが分かる(1890年:2万分の1仮製地形図「今津村」「西宮町」〈大日本帝国陸地測量部〉、1935年:5万分の1地形図「大阪西北部」〈大日本帝国陸地測量部〉)。 拡大画像 甲子園球場の東側には、路面電車の架線を吊っていた柱が根元だけ残っている(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 阪神甲子園バス停留所(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 拡大画像 武庫川の堤防沿いにある「枝川樋門」。ここが締め切られたことで枝川は廃川となった(2019年7月、宮武和多哉撮影)。 この画像の記事を読む