米軍が最も恐れた日本の戦艦=「大和」じゃない!? 際立つ存在感を示した古豪戦艦とは “快速”活かし駆け回る

1913年(大正2年)の8月16日、日本海軍が第二次世界大戦で運用した戦艦12隻のうち、唯一の外国製戦艦である戦艦「金剛」が竣工しました。

英国で竣工し日本へ回航される

 1913年(大正2年)の8月16日、旧日本海軍の戦艦「金剛」がイギリスにあるヴィッカース社のバロー・イン・ファーネス造船所で竣工し、日本へ回航されました。同艦は日本海軍が第二次世界大戦で運用した戦艦12隻のうち、唯一の外国製戦艦として数々の作戦に参加。ガダルカナル島の飛行場に対する艦砲射撃を成功させたほか、サマール沖海戦では護衛空母を撃沈するなど、旧式艦ながら、実戦で最も大きな活躍を見せた日本の戦艦として知られます。

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第2次改装後の1937年10月、中国厦門(アモイ)港外で撮影された「金剛」。この時の改装で最大速力が30ノットに向上した(画像:アメリカ海軍)

 日本は海軍を創設した明治以降、諸外国に発注した軍艦を輸入してきましたが、「金剛」はその最後の艦となります。建造は技術移転を前提としたもので、日本は技術者の派遣や設計図の入手などを要求し、ヴィッカース社はこれを承諾しました。

 金剛型戦艦の2番艦「比叡」からは、建造に必要な資材をイギリスから輸入し国内で建造する、いわゆるノックダウン生産のような形となり、3番艦「榛名」と4番艦「霧島」では国産化率も徐々に向上していきます。一連の技術移転により、国産戦艦の建造能力は大きく向上し、最終的に史上最大最強の戦艦「大和」「武蔵」につながっていきます。

 ちなみに日本の戦艦の艦名は、「大和」や「武蔵」、「長門」など旧国名から付けられていますが、「金剛」は奈良県と大阪府の境に位置する金剛山にちなんだ艦名で、旧国名ではありません。元々、装甲巡洋艦をルーツとする巡洋戦艦だった「金剛」は、一等巡洋艦の山岳名に由来する艦名となっています。

 巡洋戦艦とは、簡単に言えば、戦艦と比べると防御力はやや劣るものの、速力は勝る大型の戦闘艦を指します。海戦では、敵の巡洋艦や駆逐艦を撃破する役割も期待されていました。ただ、次第に巡洋戦艦と戦艦の区別は曖昧になり、巡洋戦艦だった金剛型は戦艦に艦種を変更することになります。

「金剛」は1913(大正2)年8月16日に竣工。南アフリカの喜望峰を回り、はるばる日本へ回航されて、同年11月5日に横須賀に到着しました。基準排水量は2万6000トンあまり、世界で初めて35.6cm砲を8門採用するなど、当時は世界最大にして最強の巡洋戦艦でした。

 竣工翌年に第1次世界大戦が勃発しますが、主戦場が欧州だったため「金剛」は大きな戦闘には参加せず、その威力を発揮するのは第2次世界大戦からになります。

 戦間期、「金剛」は2度にわたる大規模改修を受けます。最大速力は約30ノット(約55km/h)へ、航続距離も9800海里(約1万8000km)へ引き上げられたほか、水中防御力の強化、対空火力の増設なども施され、空母機動部隊に随伴することが可能な高速戦艦として生まれ変わりました。「金剛」の存在はアメリカ軍にとっても脅威で、後にアイオワ級戦艦が金剛型に対抗するために建造されることになります。

 ただ太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年12月時点で、「金剛」はすでに最古参の戦艦でした。速力こそ速かったものの、戦艦としての攻撃力や防御力は国内外の主力艦に見劣りしたのも事実です。

「大和」や「武蔵」などの強力な戦艦は、切り札として連合艦隊司令長官が直接指揮する第一艦隊第一戦隊に配備され、柔軟な運用ができないという問題がありました。日米の戦力が拮抗していたガダルカナル島をめぐる戦いには投入されず、大戦後半まで温存される形となったのです。一方「金剛」は、当初から最前線に投入されることになります。海戦の主役が戦艦から空母へ移った時代においても、速度性能を活かし、巡洋艦や空母と共に多くの作戦で運用されたことが「金剛」の活躍の幅を広げることになりました。

【画像】壮観!これが勢ぞろいした戦艦「金剛」「比叡」「榛名」「霧島」です

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