【日本の高速鉄道 その誕生と歴史】第10回「鴨宮モデル線区」
東海道新幹線開業50年を目前とした今、乗りものニュースではどのようにして新幹線が計画され、開業に至ったのかを振り返ります。第10回は「鴨宮モデル線区」です。
綾瀬~鴨宮間にモデル線区が完成
新幹線の建設は決まったものの、当時の世論はまだ新幹線計画に対して懐疑的でした。資金の目途も表面上はクリアになっていましたが、実際には相当の資金不足が懸念される中、昭和34年(1959年)4月、東海道の広軌(標準軌)新線は着工の日を迎えました。
戦前の弾丸列車計画ですでに着工され、全体の1/4程度が掘り進められていた新丹那トンネルの熱海側出口が、起工式の舞台となりました。起工式には運輸大臣や国鉄幹部などが集い、十河信二国鉄総裁が鍬入れの儀を行いました。
起工式から3年後の昭和37年(1962年)、神奈川県綾瀬市付近~同小田原市鴨宮付近の約32kmに新幹線総局直属の現業機関として、鴨宮モデル線区と呼ばれる試験線が完成しました。この区間は、各種の曲線や橋梁、そしてトンネルなど、東海道新幹線のルートで想定される様々な走行形態が存在しているため、データを収集しやすい、という理由で選定されました。
また、戦前の弾丸列車計画で用地取得が大部分済んでいて、比較的早い段階でルートに選定された区間でもあり、早期に着工できたこともその理由とされています。
このモデル線区は無駄を省くため、将来の営業運転開始時に営業路線として転用する計画で進められました。
世界で初めて行われる、電車運転での高速走行を安全に行うため、鴨宮モデル線区では完成から開業までの2年間、様々なテストが繰り返し行われました。
歴史上例を見ない高速走行の試験であり、鉄道に関わるものでも、それまで現場で経験したことがない現象が多く起こりました。走行速度の上昇につれ発生確率が高まる「蛇行動」と呼ばれる揺れ、気圧の変化で起こる乗客の「耳ツン」現象など、多岐にわたりました。
現在のようにコンピューターが発達している時代ではなかったこともあり、試験を行うたびに予想できなかった様々な問題が現れ、それをひとつひとつ改善していくという作業が連日続けられていきました。
綾瀬~鴨宮間に作られたモデル線区は、その後予定通り本来のルートに組み入れられ、現在でも本線として使用されています。モデル線区での試験はその後に大きく役立ちましたが、場所が比較的温暖な地域で、積雪による被害「雪害」だけは検証ができませんでした。このことが、開業後大きな問題となっていきます。
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