軽巡洋艦「五十鈴」が進水した日-1921.10.29 対空・対潜の二刀流は旧海軍随一か?
艦名の由来は三重県の伊勢神宮に関係しているそう。
対艦、対潜、対空、さらには物資や兵員の輸送まで奔走
今から100年あまり前の1921(大正10)年10月29日。旧日本海軍の軽巡洋艦「五十鈴」が進水しました。
同艦は駆逐艦を多数率いて戦う「水雷戦隊」の旗艦として運用するために建造された「軽巡洋艦」の1艦です。旧海軍が設計した天龍型、球磨型に次ぐ第3世代の「長良型」の2番艦として計画され、1923(大正12)年8月15日に竣工しています。
ただ、就役後は、水雷戦隊旗艦としての役割だけでなく、潜水艦を束ねる潜水戦隊の旗艦も務めたほか、太平洋戦争では陸軍の兵士や装備を各地へ運ぶ輸送艦の代わりとして、さらには損傷した空母の救護など、多岐にわたって運用されました。
「五十鈴」が外観を一新したのは太平洋戦争後半の1944(昭和19)年のこと。前年1943(昭和18)年の12月5日、南太平洋のマーシャル諸島ルオットでアメリカ軍機の猛攻を受け大破した「五十鈴」は、トラック諸島(現ミクロネシア)で応急修理を受けた後、横須賀へ回航され、本格的な修理に入ります。
その時に、防空巡洋艦へと改装も行われ、主砲の14cm砲をすべて降ろし、代わりに12.7cm高角砲(高射砲)と25mm対空機銃を多数備えるようになりました。艦橋上部に防空指揮所を設け、大型の対空レーダー「二一号七型電探」を装備、さらに前部マスト頂部には高角砲などの射撃指揮を行う九四式射撃装置が設置されています。加えて後部マストには別の対空レーダー「一三号電探」や水上レーダー「二二号電探」を装備するなどして、それまでとは大幅に一変した性能を手に入れました。
また対潜兵装も増強され、潜水艦捜索用として水中探信儀(アクティブソナー)や水中聴音機(パッシブソナー)、爆雷投射機、爆雷投下軌条などを増設。こうして「五十鈴」は旧日本海軍の軍艦では唯一の防空巡洋艦兼対潜掃討艦に生まれ変わっています。
こうして新たな能力を手に入れた「五十鈴」は、1944(昭和19)年のレイテ沖海戦において囮艦隊となった空母機動部隊(小沢艦隊)の1艦として来襲するアメリカ軍機と戦い、戦闘詳報によれば同海戦で13機(うち不確実4機)を撃墜したと記されています。
レイテ沖海戦を生き抜いた「五十鈴」は、呉に帰着すると修理を受けた後、フィリピンへの物資輸送やティモールからの将兵の撤退などに投入されます。それらに従事するなかで1945(昭和20)年4月7日にジャワ島の東方でアメリカの潜水艦による攻撃に遭い沈没。24年の艦歴に幕を下ろしました。
【了】
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