【日本の高速鉄道 その誕生と歴史】第1回「狭軌で始まった日本の鉄道」
政争の具として扱われた改軌論争
1872年に開通した日本の鉄道は、その後順調に歩みを進め、輸送量も徐々に増加していきました。すると、軌間の問題が顔を出すようになります。欧米諸国で採用されている標準軌と比較すると、日本が導入した狭軌は、列車のスピードや輸送力の面で劣ります。鉄道に関わる人たちの中でも、狭軌をやめて標準軌へ改軌しよう、といった意見が出てくるようになりました。そしてその声は、日露戦争終結後、さらに大きくなっていきます。
改軌論者として名高いのが、後藤新平です。日露戦争の勝利によって得た、南満州鉄道(満鉄)の初代総裁に就いた後藤は、“満鉄と同様に国内の鉄道も標準軌に改軌すべし”との意見を強く持っていました。また一方では、“狭軌での建設を続け、路線網の拡充を図るのが先決だ”という意見も根強くありました。改軌論争は、その後長らく政争の具としても扱われることになります。
結局、日本の鉄道は改軌されることなく建設が進み、大正8年(1919年)の貴族院特別委員会にて、“標準軌は不要”との見解が出され、改軌論争はここで一旦終止符を迎えます。しかし、日中戦争を過ぎた頃になると、戦争による需要増加なども要因となり、日本の大動脈である東海道本線や山陽本線の輸送力は逼迫していきます。ここで現れたのが“弾丸列車計画”です。
弾丸列車とは、輸送力が不足しつつある東海道本線と山陽本線を線増(線路の数を増やす)計画で、昭和14年(1939年)に特別調査会が設けられました。この委員長に就任したのが、標準軌へ強い意欲を持つ島安次郎で、燻り続けていた改軌論がまた、俎上に載ったことを意味していました。
テーマ特集「【新幹線特集】最新の新幹線事情から運賃・料金、ネット予約、快適移動の乗車術まで徹底紹介」へ
コメント