【日本の高速鉄道 その誕生と歴史】第8回「狭軌か標準軌か」

広軌別線で行く

「東海道線増強委員会」で議論された、東海道に新線を敷設する計画は、主に以下の3パターンに大別されました。

【1】在来線に狭軌路線を張り付け線増する
【2】別のルートで狭軌新線を敷設する
【3】別のルートで広軌新線を敷設する

 当時の総裁である十河信二は、満鉄で「あじあ」号に関わっただけでなく、満鉄総裁・後藤新平の考え方を肌で知る存在でした。また、当時の疲弊した国鉄内部に活力を与えたい、という意味も含めて、広軌幹線の実現に強い意欲を持っていました。

 さらに、鉄道技術研究所が昭和32年5月の創立50周年講演会で「広軌幹線ならば、東京~大阪間を3時間運転で結ぶことが可能」という報告を行っており、これも十河が目指す広軌幹線実現への力となりました。

「これからは自動車や飛行機の時代だ」と言われる時代の中、十河の熱意は周囲へ十分に拡散し、昭和33年(1958年)7月7日に出された「日本国有鉄道幹線調査会」の答申には、「広軌幹線が妥当。5か年で工期を完了することを目標とする」と記されました。東海道新幹線が、第一歩を踏み出した瞬間です。

 開業の目標は、昭和39年(1964年)10月。奇しくも、同時期に開催が決定した『東京オリンピック』と同じ時期になりました。

【第9回:世界銀行借款に続く】

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Writer: 赤野 克利

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