【廃線跡の思い出】越後交通長岡線 廃止後も「そのまま」放置は田中角栄の意向?
長岡市の中心部と日本海側の寺泊を結んでいた越後交通長岡線。廃止から10年以上経過していた時点でもレールや架線柱などの施設が放置されていました。
レールや架線柱は廃止時のまま
越後交通栃尾線の跡地を全線踏破してから4年後。国鉄がJRに変わり、昭和も平成に変わった1989(平成元)年3月、久しぶりに廃線跡の全線踏破を敢行しました。栃尾線と同じ、越後交通が経営する長岡線です。
長岡線は、信越本線の来迎寺駅から越後平野の田園地帯を貫いて、日本海に面した寺泊駅に至る、全長約29kmの鉄道路線でした。
旅客輸送は栃尾線と同じ1975(昭和50)年までに全線廃止されましたが、1989(平成元)年当時は来迎寺~西長岡~越後関原間の約12kmのみ貨物線として存続。さらに越後関原~王寺川間の約2kmも休止扱いの路線として地形図に描かれていました。そのため、当時実際に散策したのは越後関原~寺泊間の約17kmだけです。
当時の記憶はやや曖昧ですが、確か越後関原駅の近くにあった木造2階建ての商人宿のようなところに泊まって翌日早朝スタート。越後関原駅は当時現役の貨物駅でしたからレールや架線柱、架線がしっかりと設置されていましたし、休止線扱いの越後関原~王寺川も列車を走らせることが可能な状態でした。
ところが、正真正銘の廃線跡となる王寺川駅の先も、架線こそ撤去されていたものの、線路と架線柱はほぼそのまま。放置しておくと治水上は問題が多い鉄橋も、橋脚から橋桁、桁上のレールまで廃止時のまま残っていました。とはいえ、長いこと放置されていたのは確か。架線柱は斜めに傾いていました。
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Writer: 草町義和(鉄道ニュースサイト記者)
鉄道誌の編集やウェブサイト制作業を経て鉄道ライターに。2020年から鉄道ニュースサイト『鉄道プレスネット』所属記者。おもな研究分野は廃線や未成線、鉄道新線の建設や路線計画。鉄道誌『鉄道ジャーナル』(成美堂出版)などに寄稿。おもな著書に『鉄道計画は変わる。』(交通新聞社)など。