“消えたフェリー会社”の思い出が止まらない…! 引退間近「さんふらわあ しれとこ」深夜便ならではの魅力とは? それは長い長い旅の終わり〈PR〉
特別取材で見た普段は入れない場所
今回、通常は立ち入りできないエリアにも特別に許可をいただいて見学することができました。
筆者は「ニューれいんぼうべる」時代からこの船に乗っていますが、車両甲板に入ったのは初めてでした。
上からC/D/Eと3つのデッキで構成され、第3甲板(Cデッキ)には大型トラック(12メートル換算)で75台・乗用車23台、第2甲板(Dデッキ)は大型トラック85台、第1甲板(Eデッキ)は乗用車39台の合計大型トラック160台、乗用車62台の収容が可能です。
その空間は想像以上に広く、北海道と首都圏をつなぐ唯一の長距離旅客フェリーが、物流面でも大きな役割を果たしていることが理解できます。
続いて、操舵(そうだ)室であるブリッジへ。この船のブリッジに入るのは、以前取材で訪れて以来、実に19年ぶりです。機器が最新のものにグレードアップしていましたが、室内の雰囲気は当時とほとんど変わっておらず、タイムスリップした気分になってしまいます。
筆者が2005年3月に初めて「ニューれいんぼうべる」に乗船したとき、キャプテン(船長)のインタビューでお邪魔したブリッジ。この船のデビューに伴い、「れいんぼうらぶ」(当時は九越フェリー)が韓国に売船され、「ニューゴールデンブリッジV」と改名・改装されました。
同年秋の2度目の乗船では、団体ツアーで直江津から博多まで乗船する人々を対象に行われたブリッジ見学会に同行。キャプテンは海図をテーブルの上に広げて、見学客の質問にひとつひとつ丁寧に答えていました。
見学客がひきあげた後、キャプテンから「ある交流」についてお話を伺いました。
九越フェリーの「れいんぼうらぶ」と島根県塩津地区(現・出雲市)の小学生たちの交流を描いた映画『白い船』(2002年上映)の舞台となった塩津小学校(2019年廃校)の子どもたちは、直江津→博多間で3度乗船しています。
この年の7月下旬、塩津小学校の子どもたちが3度目にして初めて「ニューれいんぼうらぶ」に乗ったとのことです。
船も会社も代わってしまいましたが、筆者が乗った「ニューれいんぼうべる」船内にも『白い船』のコーナーが残されていました。そこには映画のポスターや、小学校を使用した撮影の模様を撮った写真が掲示されていました。
当時のキャプテンは「いまでも小学校の子どもたちから『今日は遠足に行って、船を見ました』というFAXがダイレクトにブリッジに来ますし、それらにきちんと返事をしています」とおっしゃっていました。
乗組員も塩津小学校を実際に訪問するなど、交流が長く続いたとのことでした。
当時のキャプテンが海図を広げたテーブル。それがいまも変わっていないことで、白い船のことが鮮やかによみがえります。
続いて、船後方にあるドライバーズルームへ。この区画は本来、長距離ドライバーの休息のためのもので、一般乗客の立ち入りはできないことになっています。
しかし、筆者にとってここは初めてではありません。2020年9月、4連休最終日ということもあって、苫小牧発大洗行きは旅客で満杯でした。そこで、空きのあったドライバーズルームをあてがわれたことがあったからです。
なんだか国鉄時代の寝台列車を思わせるようなベッドに寝転がり、ブルートレインに乗った気分になったことを覚えています。
ドライバー同士で宴会をする娯楽室、たまったものを洗濯するランドリーなど、ドライバー用の施設は、浴室以外は旅客とは別になっています。
「ニューれいんぼうべる」初乗船時、ドライバーたちはレインボーホールで食事をしていました。そのうちのMさんは長崎の人で、青森のりんごを仕入れて再び長崎に戻る仕事をしていました。だいたい月に4回ほど乗船し、多い時には年間80回も乗船していたそうです。
ずいぶん長いこと博多~直江津航路を利用しており、「れいんぼうべる・らぶ」姉妹の時代もよくご存じの「九越フェリーの生き字引」的な存在でした。
仲間のドライバーたちと食事をしていたMさんは言いました。
「フェリーはね、トラックもタイヤも休めるから消耗も防げるし、何より自分の体が休まるのがいい。たっぷり寝て、入港30分前に起きて顔を洗ったら、直江津から一晩で青森まで走るパワーがあふれるもんな。それから船旅はいろんな人に会えるのがいいわな。ふだんはなかなか話す機会のない人たちと意気投合してね」
そして最後に、こう付け加えました。
「このフェリーをもっと宣伝してやってくださいよ」。
それは当時、博多~直江津航路が消えてしまうと商売に差し支えがあることも、もちろんあったと思われます。しかし、それよりもこの船を心から愛しているから出た言葉のように聞こえました。
最後に、筆者が最も見ておきたかった施設へ。それはデラックスルームです。
ブリッジのほぼ真下に位置し、船首の展望ラウンジのすぐ後方に2室のみ存在します。いわば「隠し部屋」のような存在で、このキャビンがあることに気づかない人も多かったそうです。
残念ながら新型コロナウィルスの感染が拡大した年である2020年の5月1日に販売が停止され、引退まで販売される予定はないということです。こうしたこともあり、ますますミステリアスな「開かずの間」となっています。
初めて入室したデラックスルームは、やや年季の入ったビジネスホテルのツインルームのような雰囲気が漂います。それでもバスタブと洗面所が付き、DVD鑑賞も可能なテレビもあります。
何よりも、オーシャンビューの一室。日中の運航時間が長い深夜便では、カジュアルルームとはワンランク違ったぜいたくな時間を過ごせそうです。
シニアご夫妻の利用が多いかと思いきや、フェリーファンや若い人など意外と幅広い利用者がいたそうです。
増え続ける物流需要が生んだ東日本フェリーとの共存
大洗と北海道をつなぐフェリー航路は現在こそ商船三井さんふらわあの単独運航ですが、当初はそうではありませんでした。
房総半島を大きく迂回(うかい)する北海道~東京航路よりも、大洗から東京までを陸送化するほうが物流面の効率が良く、1980年代になると北海道~大洗航路の開設は各方面から要望が高まっていました。
「しれとこ丸」などで東京~苫小牧航路に就航していた日本沿海フェリーに対し、新たに室蘭~大洗航路の開設に意欲を示したのが東日本フェリーです。争奪戦を繰り広げた両社の落としどころとなったのが、1985年に茨城県で行われた国際科学技術博覧会(つくば科学万博)でした。
なんとか万博開幕までには航路を開設させたいという思惑から生み出されたのが大洗~苫小牧と、室蘭~大洗という2社による2航路体制です。これは、万博開幕前日の1985年3月16日にスタートしました。
2航路体制の確立後も物流需要は増え続け、日本沿海フェリーは1988年11月に大洗航路増便計画を策定。1992年には運輸省(現・国土交通省)の認可を得て、翌年の1993年に新造船「さんふらわあ みと」によって念願のデイリーサービス体制となりました。
東日本フェリーは1991年、九越フェリー(直江津~博多)を設立。1998年秋に東日本フェリーの室蘭~直江津航路が九越フェリー航路に乗り入れ、室蘭~直江津~博多を週3便で開始します。
しかし、経営難から次々と同社の航路は休止します。そして、2002年6月3日に東日本フェリーは競合相手の商船三井フェリー(日本沿海フェリーは1990年にブルーハイウェイラインへ社名変更、さらに2001年に商船三井フェリーへと営業譲渡)との共同運航航路として大洗~苫小牧航路の開設に踏み切ります。
その後、2006年末には室蘭~直江津~博多航路を休止。2007年1月にはついに大洗~苫小牧航路の運航を商船三井フェリーへ移管します。
そして日本海航路に就航していたニューれいんぼうべるは「さんふらわあ しれとこ」、ニューれいんぼうらぶは「さんふらわあ だいせつ」と改名され、大洗航路の深夜便に就航します。
Writer: カナマルトモヨシ(航海作家)
1966年生まれ。日本のフェリーだけでなく外国航路や、中国・韓国の国内フェリーにも乗船経験が豊富な航海作家。商船三井のホームページ「カジュアルクルーズさんふらわあ」や雑誌「クルーズ」(海事プレス社)などに連載を持つ。