米国は「空飛ぶ看護師」日本は「エア・ガール」 航空会社「客室乗務員」の起源を辿る

CAや「スチュワーデス」の源流は「エア・ガール」

 初の「エア・ガール」は民間の東京航空輸送社で誕生しました。同社は1930(昭和5)年から、大森(東京)~下田(静岡)~清水(静岡)間に週2便、4人乗りの水上旅客機を運航しており、ここに「エア・ガール」を搭乗させることを決めます。採用試験には141名もの応募があり、最終的に3名が選ばれました。

 とはいえ、水上旅客機は機内がとても狭かったことから、「エア・ガール」の業務内容は旅客サービスというより、乗務することによる乗客への安心感に主軸を置いたものでした。その後、「エア・ガール」は半官半民といえる日本航空輸送でも誕生し、1937(昭和12)年から本格的にサービスの一環となった、と記録されています。ちなみに、日本航空輸送の「エア・ガール」の採用試験に応募したのは約2000名、うち採用されたのは、わずか9名だったそうです。

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ダグラスDC-2。日本で「エア・ガール」が本格化した時代の主力旅客機のひとつ(画像:アメリカ議会図書館)。

 日本航空輸送の旅客機は、機内に10席以上を備える当時としては大きなもので、客室中央には通路も設けられていました。機内では、現代のCAと同じく新聞・雑誌を配ったり、食事や茶菓のサービスを行ったりしたようで、この光景は当時のマスコミに、「空(あま)翔ける天女」などと呼ばれ、取り上げられたことで、彼女らは脚光を浴びています。

 ところが当時、日本は日中戦争(支那事変)を戦っており、第2次世界大戦へと続く戦乱の時期であったことから、軍部から不適切であるとの指導が入ったことなども影響し、戦前の「エア・ガール」は長く続くことなく終わったのです。

 ちなみに、当時の逸話として、飛行機の事故率が高く、まだ世間では「簡単に落ちる」とレッテルが貼られていた時代ではあったものの、不思議と「エア・ガール」乗務の便で墜落したことはなかったとか。パイロットから「君たちが乗ってくれると安心だ」といわれたという話もあります。

 2021年現在、客室乗務員の役割は、単なる旅客へのサービス提供だけではなく、安全な運航を支える重要な役割を担っています。採用試験に合格した後も、様々な訓練を経て一人前の客室乗務員となることができ、航空ファンのみならず、多くの乗客を喜ばせるその笑顔の影には、大変な努力があることでしょう。

【了】

【発想が鬼】いまや客室乗務員は「衝撃グッズ」に変身

Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)

成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。

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