その日、長崎を目指した救援列車

長崎の街が原爆投下で大きな被害を受けたその直後、列車が走り出していました。ひとりでも多くの人を救うために。

原爆投下直後、その街を目指した列車

 1945(昭和20)年8月9日のお昼前、長崎の街を悲劇が襲いました。鉄道にも多大な被害が出て、現在のJR長崎本線は浦上駅、長崎駅の駅舎が焼失、倒壊したほか、職員157人が死傷。路面電車の長崎電気軌道も壊滅的な被害を受け、車両16両が焼失。120名の社員が亡くなっています。

 ですがこの日、列車は動いていました。いえ、動かさねばという強い意志によって運転されていた、というべきでしょう。負傷者を収容し周辺の病院へ運ぼうと、炎に包まれる長崎の爆心地を目指し、救援列車が運転されたのです。

 原爆投下時、長崎駅から約10kmの長与駅に停車していた311列車が急遽、第1号の救援列車に仕立てられ、長崎の街へ急行します。

 しかし、簡単に現地へ向かうことはできませんでした。火災が至るところで発生し、線路の損傷具合もわかりません。また長崎原爆資料館の「被爆者救援列車展」資料によると、線路上には避難する人、倒れている人が大勢いたため、汽笛を鳴らしながら少しずつ走行したといいます。

 そして救援列車は爆心地から1.4kmほど離れた、道ノ尾駅と浦上駅の中間にある照圓寺付近でこれ以上進むことが難しくなり、そこで負傷者を収容することになりました。国立広島・長崎原爆死没者追悼平和記念館の証言資料では、負傷者を車両に収容したその時の状況について、以下のように述べられています。

「線路から客車のデッキまでは高く(中略)被災者は全然力が残っておらず、ただ、つかまるだけで、上りきらないので、私たちが抱き上げようとして驚きました。手、顔もやけどし、皮膚がはがれて垂れ下がっており、胸はやけどがむきだしで中の赤い肉が見えていました(中略)そういう人たちばかりなのです。」

 この救援列車は負傷者を収容したのち、原爆投下からまだ3時間経っていない13時50分頃に爆心地近くの道ノ尾駅を発車。15時頃、海軍病院のあった諫早駅へ到着したとされています。

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