【廃線跡の思い出】越後交通栃尾線 道路の真ん中を覆っていた雑草
「廃線跡散策」という鉄道趣味の一ジャンルにのめり込んだ鉄道ライターが、そのきっかけとなった越後交通栃尾線の思い出を語る2回目です。
推測通りに現れた「遺跡」
「レールのない鉄橋」をきっかけに、私(草町)は越後交通栃尾線がどこを通っていたのか、線路の跡地はどうなっているのか、知りたくなりました。
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国土地理院が発行している最新の地形図を入手。栃尾線があったころの古い地形図も父から借りて、線路が敷かれていた場所を推測しました。そして中学時代の1983(昭和58)年11月23日、全線約27kmのうち、長岡駅から悠久山駅までの約3kmを歩いたのです。
当時は国鉄再建法に基づく特定地方交通線の整理が始まったばかり。ちょうど1か月前の10月23日、北海道の白糠線が廃止されています。これからどんどん鉄道が廃止されて、自分が乗りに行く前に消えてしまう路線が増えるだろう。だったら廃止された鉄道を楽しむしかないじゃないか……栃尾線の跡地を歩いたのは、そんな思いもありました。
廃線跡をたどっていくと、不思議な光景が目の前に広がっていました。なぜか道路の真ん中だけ舗装されておらず、雑草に覆われてるのです。実際は「道路の真ん中」というより、線路の両脇に側道が整備されてアスファルトで舗装されたが、のちに栃尾線が廃止されたため、真ん中だけ未舗装という状態になってしまったのです。
その後も草に埋もれた築堤や、倒れた木製の架線柱、枕木などが目の前に姿を現し、鉄路の遺構であることを明確に示していました。
悠久山~長岡間は1973(昭和48)年4月16日に廃止されており、私が歩いた時点では廃止から10年ほど。大人なら電車が走っていたころの記憶が残っていたはずで、沿線の住民にとっては、築堤も架線柱も、とくに気になるような存在ではなかったと思います。
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Writer: 草町義和(鉄道ニュースサイト記者)
鉄道誌の編集やウェブサイト制作業を経て鉄道ライターに。2020年から鉄道ニュースサイト『鉄道プレスネット』所属記者。おもな研究分野は廃線や未成線、鉄道新線の建設や路線計画。鉄道誌『鉄道ジャーナル』(成美堂出版)などに寄稿。おもな著書に『鉄道計画は変わる。』(交通新聞社)など。
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