筑豊目指した西鉄宮地岳線「幻の計画」 鹿児島本線に残る橋台の謎

西鉄の貝塚線は約10年前まで「宮地岳線」を名乗り、宮地嶽神社の近くを通って津屋崎に至る路線でした。しかし、かつては津屋崎には行かずに筑豊地域まで伸ばす計画で、その遺構が鹿児島本線の線路の脇に残っています。幻の計画の名残をたどってみました。

津屋崎に伸ばす計画ではなかった

 鉄道路線の多くは別の鉄道路線と接続してネットワークを構成していますが、なかには起点と終点のどちらかが別の鉄道路線とは接続しておらず、終着駅の末端で線路が途切れている路線もあります。いわゆる「行き止まり線」「盲腸線」です。

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鹿児島本線・東福間~福間間を駆け抜ける特急「ソニック」。その脇にある古びたレンガ積みの橋台は「幻の鉄路」の名残だ(2018年10月4日、草町義和撮影)。

 こうした路線のなかには、さらに先まで線路を伸ばす計画があったものの、さまざまな事情から中止された経緯を持つものが多数あります。大手私鉄の西日本鉄道(西鉄)が運営する福岡県の貝塚線も、幻に終わった未成区間がある鉄道路線のひとつです。

 西鉄貝塚線は貝塚駅(福岡市東区)から博多湾や玄界灘に沿って北上し、西鉄新宮駅(新宮町)までを結ぶ11.0kmの鉄道路線です。かつては宮地岳線を名乗っており、西鉄新宮駅から宮地嶽神社の近くを通って津屋崎駅(福津市)までを結んでいましたが、約10年前の2007(平成19)年に廃止されました。廃線跡は現在、住宅地や太陽光発電装置の設置場所として活用されています。

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かつての西鉄宮地岳線は一部廃止され、現在は西鉄新宮駅が終点に。線名も貝塚線に変わった(2018年10月4日、草町義和撮影)。
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西鉄新宮駅の先は線路が途切れている(2018年10月4日、草町義和撮影)。
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津屋崎駅跡に残る「電車延長記念」の石碑。駅の敷地は住宅地に変わった(2018年10月4日、草町義和撮影)。

 終点の津屋崎駅は、ほかの鉄道路線との接続がない行き止まりの駅。津屋崎からさらに玄界灘に沿って線路を伸ばしていけば、北九州市内に到達できそうです。九州で最も人口が多い福岡と2番目に多い北九州を結ぶなら相当な需要が見込めそうですし、実現していれば宮地岳線が一部廃止されることはなかったかもしれません。

 実際、津屋崎駅からさらに先に伸ばそうという構想が語られたことはありました。しかし、もともとは津屋崎を通る計画ではなく、内陸の山間部を目指していたのです。

直方電気軌道の計画を縮小して東筑軌道に

 時は明治時代にさかのぼります。東京の実業家らが、福岡市東部の志免町や須恵町、宇美町などにあった炭鉱と博多湾を結ぶ運炭路線を計画。運営会社の博多湾鉄道(湾鉄)を設立し、1904(明治37)年から1905(明治38)年にかけて西戸崎~香椎~宇美間が開業します。現在のJR香椎線です。

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もともとは運炭路線だった香椎線。博多湾鉄道が建設した(2005年5月、草町義和撮影)。

 ちょうどこのころ、九州鉄道(現在のJR鹿児島本線)の福間駅から宮司(宮地嶽神社付近)を経て津屋崎までを結ぶ馬車鉄道も、津屋崎の住民有志により計画されました。軌道条例(のちの軌道法)による特許を1906(明治39)年に取得し、翌1907(明治40)年に会社設立。当初の社名は津屋崎馬車鉄道でしたが、ほどなくして津屋崎軌道に改称しています。その後、1909(明治42)年までに福間~津屋崎間が開業。津屋崎から鹿児島本線にアクセスできるようになりました。

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津屋崎へのアクセス路線は鹿児島本線の福間駅から伸びる馬車鉄道が最初に開業した(2018年10月4日、草町義和撮影)。

 そして、香椎から宮司、東郷、福丸などを通って筑豊本線が通る直方に至る直方電気軌道が、博多の商人などによって計画されました。これが宮地岳線の原案といえる計画で、1910(明治43)年に発起人が軌道特許を申請。宮司から海沿いではなく、内陸の山間部へと入っていくルートでした。

 当時の経済状況の影響を受けたことや、鹿児島本線など競合する並行路線があるなどの事情から、直方電気軌道の計画は徐々に縮小。動力も電気から蒸気に変更され、1913(大正2)年に直方軌道として東郷(鹿児島本線の東郷駅に連絡)~福丸間のみ特許されました。

 その後、直方軌道は鹿児島本線との連絡点を東郷駅から福間駅に変更し、1915(大正4)年1月に会社が設立されます。この時点で福丸~直方間を結ぶ鞍手軌道(1938年廃止)の建設が順次進んでおり、福丸で鞍手軌道と連絡すれば直方へのアクセスは確保できます。そのためか会社設立時の社名は「直方」が消え、東筑軌道に。設立から5日後には工事の施行を申請。1918(大正7)年に認可されました。

湾鉄の都市間鉄道計画で東筑軌道を買収

 ところが、ここで事態は急展開します。1919(大正8)年6月、東筑軌道が軌道特許を放棄する形で、軽便鉄道法(のちの地方鉄道法)に基づく福間~福丸間の鉄道免許を改めて取得。同年8月には湾鉄が東筑軌道の鉄道免許を譲り受けます。

 これと同じころ、湾鉄は現在の福岡市内から和白を経て福間に至る区間の鉄道免許を取得。1921(大正10)年には福丸から直方と同様に筑豊本線が通る飯塚までの鉄道免許も取得しました。この免許区間に東筑軌道から譲り受けた免許区間をつなぐと、福岡と筑豊地域を結ぶ鉄道になります。

 このころ、博多随一の富豪として知られた太田清蔵(4代目)が湾鉄の経営に加わりました。太田は「運炭路線だけでは、石炭が枯渇したときに経営が立ちゆかなくなる」と考え、経営の多角化を進めます。その一環として都市間鉄道への参入を考えるようになったころ、東筑軌道の計画が始動。これに注目した太田が東筑軌道を取り込む形で、福岡~筑豊の都市間鉄道を建設することにしたのです。

 こうして1924(大正13)年の5月から7月にかけ、新博多駅(現在のセブンイレブン博多千代5丁目店)から現在の貝塚駅付近を通り、宮地岳駅に至る鉄道路線(湾鉄貝塚線)が開業します。このうち新博多駅から現在の貝塚駅までは、のちに福岡市内の路面電車網に取り込まれ、1979(昭和54)年に廃止。現在は貝塚駅で福岡市地下鉄箱崎線との連絡が図られています。

 一方、終点の宮地岳駅は開業当時、宮地嶽神社から南へ約600mの位置にあり、線路の末端は津屋崎ではなく山間部の福丸の方を向いていました。

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Writer: 草町義和(鉄道ニュースサイト記者)

鉄道誌の編集やウェブサイト制作業を経て鉄道ライターに。2020年から鉄道ニュースサイト『鉄道プレスネット』所属記者。おもな研究分野は廃線や未成線、鉄道新線の建設や路線計画。鉄道誌『鉄道ジャーナル』(成美堂出版)などに寄稿。おもな著書に『鉄道計画は変わる。』(交通新聞社)など。

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