どうしたら「鉄道写真家」になれるのか? 運命の「さよならはつかり583系号」

特に求人や資格があるわけでもない「鉄道写真家」という仕事。どうしたらなれるのでしょうか。村上悠太さんが自身の経験を元に語ります。鉄道写真家になる経緯は人それぞれですが、ポイントや、「プロ」として大切なことがあるようです。

中学3年 強かった一眼レフカメラへの憧れ

 前回は、僕(村上悠太:鉄道写真家)の仕事内容を紹介しましたが、いかがだったでしょうか!? 2本目となる今回の記事では、僕がどうやって鉄道写真家になったのかというお話をしていきたいなと思います。

 僕が初めて一眼レフカメラを持ったのは2002(平成14)年 、中学3年の頃。本格的に写真に挑戦してみよう!と決心し、貯金を使ってキヤノンのEOS Kiss IIIというフィルムカメラを購入しました。

Large 200626 photo 01

拡大画像

僕がほぼ初めて撮った鉄道写真。いま見れば順光ではないし、車両後方は切れていて完成度は低いが、望遠レンズで覗いた構図は鉄道雑誌のような画で興奮した。

 当時はデジタルカメラもすでに一般的でしたし、デジタル一眼レフカメラも登場したての頃です。ただ、デジタル一眼レフについてはまだ先進的なカメラだったということもあり、当然いまのような価格帯ではなく、フィルムカメラの最上位機種よりも高いくらいの価格だったと記憶しています。

 コンパクトデジタルカメラもいいかな、と思ったのですが、やはり一眼レフカメラへの憧れが強かったので、カメラと標準ズーム、望遠ズームのセットを購入しました。キヤノンを選んだ理由ですが、他機種とスペックを吟味したというよりは、「シャッター音が好き!」というとっても単純な理由でした。

むしろ落選ばかりだった鉄道写真

 一眼レフカメラを購入してからは、一気に鉄道写真の世界にのめり込みます。それまで、これといって特技がなかった僕にとって「写真」は、ひとつのアイデンティティになりました。高校に入ってからは、鉄道雑誌やカメラ雑誌へ積極的に投稿し、毎月、採用されているかその結果を見に本屋さんへ行くのがとても楽しみでした。

Large 200626 photo 02

拡大画像

高校時代の写真たち。雑誌投稿を考えていたのでカラーリバーサル(ポジ)フィルムでの撮影にこだわっていた。モノクロはいまもほとんど使用していない。

 徐々に掲載がコンスタントになると、どこかで「プロになりたい」という思いが芽生え始めます。好きなことを仕事にしたいという気持ちと、自分ができることで世の中や誰かの役に立ちたいという気持ちが、僕に「プロの鉄道写真家になるんだ」という夢を具体化させる道へ誘いました。

 ちなみに僕は、誌面投稿や月例のフォトコンテストには何回か佳作入賞や採用をしていただいたものの、実は金賞などの上位賞や、年に一度だけ行われるような大きなフォトコンテストでの入賞経験はありません。学生時代全体を振り返っても、北海道東川町で夏に開催されている「写真甲子園」に、高3の夏に関東代表で出場したのが最高の賞です。

Large 200626 photo 03

拡大画像

高校3年生で出場した「写真甲子園」本戦大会中の村上少年。2019年、2020年大会は審査委員として「写真甲子園」に帰ってくることができた。

 この「写真甲子園」でも最終結果では上位ではありませんでしたし、しかも「写真甲子園」は3人1組で取り組むというルールもあり、鉄道写真で挑戦していないので、鉄道写真に限ってしまうと入賞経験は皆無です。むしろ、落選ばかりでした。

 それでも、なぜプロになりたいという思いが強くなっていったのかは、いま改めて考えてみると少し謎ですが、逆にいうとそうした入賞実績がそのままプロへの道に繋がってはいないというひとつの例にも感じています。自分自身も賞を取るというよりも、自分の写真を1人でも多くの人に見てもらえるチャンスが多いという意味で「プロ」という世界に憧れが強かったのだと思います。

「さよならはつかり583系号」で鉄道写真家と運命の出会い

 さて、なんとなく描き始めたプロへの道ですが、それが一気に加速した出来事が高校2年のときに起こりました。

 当時、東北新幹線が八戸に延伸開業するのに際し、特急「はつかり」が引退するということで、お金が貯まれば青森へ行くということを繰り返していました。2002(平成14)年12月1日の八戸延伸開業当日と前日も青森にいて、開業前日に運行された「さよならはつかり583系号」という臨時列車を往路は撮影し、復路は乗車をしていました。

Large 200626 photo 04

拡大画像

特急「はつかり号」最後の日に運転された「さよならはつかり583系号」。撮影後、乗車した青森行きの車内で人生が大きく変わった。

 その車中で雑誌取材中だったレイルマンフォトオフィス代表(当時)の中井精也さんに出会い、その場で「プロになりたい」と相談しました。中井さんは取材中でしたし、僕もきちんとした言葉遣いではなかったにもかかわらず、「一度事務所に遊びにおいでよ」と言ってくださり、その後、僕の職場となるレイルマンフォトオフィスの門を初めて叩く日がやってきました。

 電話で恐る恐る事務所訪問のアポイントを取り、自分の撮影した写真を持って訪れると、そこには中井さんと共同でレイルマンフォトオフィスの代表を務めている山﨑友也さんもいてくださり、ていねいに写真を見てくれたのをよく覚えています。

 その後も新作がたまればレイルマンを訪れ、本当は高校卒業と同時に事務所へ入りたかったのですが、「大学は出ておいたほうがいい」というアドバイスで、写真を専攻できる日本大学芸術学部写真学科に進学しました。

残り3113文字

この続きは有料会員登録をすると読むことができます。

2週間無料で登録する

Writer: 村上悠太(鉄道写真家)

1987年生まれでJRと同い年、鉄道発祥の地新橋生まれの鉄道写真家。車両はもちろん、鉄道に関わる様々な世界にレンズを向ける。元々乗り鉄なので、車でロケに出かけても時間ができれば車をおいてカメラといっしょに列車旅を楽しんでいる。日本鉄道写真作家協会会員、キヤノンEOS学園講師。

最新記事