日本初フライトをけん引 日の丸航空界の父「徳川好敏」どんな人物? 実現へのドラマ
徳川好敏氏はどんな人間だったのか
徳川好敏氏は、高等師範学校附属小学校および中学校(現在の筑波大学付属の小中高等学校)を経て、旧日本陸軍士官学校を卒業し、工兵大尉となります。25歳のときに、先述の臨時軍用気球研究会の委員となり、パリへ出張し、飛行機の購入と飛行術の習得を命じられます。このあたりの経緯を細かく記載されている資料は見たことがないのですが、好敏氏が清水徳川家の名誉を回復したいと望んでいることを、工兵隊の上官が理解していたからこそ、飛行術の習得やパリ留学ができたのではないでしょうか。もしかすると私(種山雅夫:元航空科学博物館展示部長 学芸員)は、そのような日本人的な事情が考慮されたのではないかとも考えます。
もちろん、徳川好敏氏の経歴を見れば、真面目で、組織の一員として活動でき、技術に関する理解能力も高かったのではないかと類推できます。また、同氏の人格などについても、肯定的な著述が多く残っているのも特徴です。
この徳川好敏氏に関する私(種山雅夫、元航空科学博物館展示部長 学芸員)の好きなエピソードをいくつか。先述のとおり彼が飛行学校での飛行術訓練のためパリ郊外に出向いたとき、飛行学校への通学にはバイクを使っていたそうです。というのも、彼が学んだ飛行学校の練習の順番は先着順だったそう。早く行けば、それだけ早く練習できるから……とバイク通勤を選んだとされています。
しかし、実際の操縦訓練は、同乗飛行数回(練習生が前に座り、教官が後ろから操縦稈を握っていたそうな)で、飛行場上空での卒業試験だけだったとも。こうして、有名なフランス航空協会発行の操縦免許を取得して帰国します。
日野大尉は、諸説ですか。
なるほどね。それが、学術的態度なんですね。
所沢にファルマン運輸なんて会社もあるほど馴染みのある出来事のようで。
ちなみに私の航空関連知名人の縁戚の方を見かけたプチ自慢。
科博で展示されていたネ20ジェットエンジンの前で橘花の開発に関わった種子島氏のお孫さんという方を見かけたことが。
ご自身のお爺様の関わったものということで来館したそう。
美しい奥様でした。