日本初フライトをけん引 日の丸航空界の父「徳川好敏」どんな人物? 実現へのドラマ

徳川好敏氏のある意味人間らしいエピソード

 徳川好敏氏の陸軍航空界の後輩には、滋野清武氏というパイロットがいました。彼はフランス国内に限定されるフランス航空協会の操縦免許ではなく、格上の世界中で通用する「万国飛行免状」を個人で取得した人物で、臨時軍用気球研究会にも参加を要請されるほどの腕前でした。

 彼は、操縦技術に関しても徳川好敏氏より上で、後輩への指導についてうまかったともいいます。しかし、そのことがマイナスに働いたのか、両者の間に軋轢が生じるようになったとも。結果、徳川好敏氏が彼を教官から外すように動いたことで、彼がメンバーから外れたとの記載があります。そのためか、のちに滋野氏はフランスへ渡り、第1次世界大戦で戦闘機乗りとなります。そして5機以上の戦果を挙げる「エースパイロット」となったことで、「バロン滋野」として名を上げるまでに至ります。

 ハナシを徳川好敏氏に戻すと、1910(明治43)年12月19日、彼は日本における飛行機の公式飛行に初めて成功します。先述のとおりこのフライトで「清水徳川家の名誉を回復したい」と考えていたであろう徳川好敏氏が、もし飛べなかったらならば、自分の責任を感じて……といったことを容易に想像してしまうほど、命がけのチャレンジだったのかもしれません。

 初飛行が成功したことで、清水徳川家の名誉も回復。男爵が授与されます。こうして、徳川好敏氏は、旧日本陸軍航空生みの親、そして育ての親となっていきました。初飛行については、これ以外にも様々な説が飛び交っていますが、誰が最初に飛んだかではなく、これが日本の航空界をけん引するスタートとなったことが重要ではないでしょうか。

 私(種山雅夫、元航空科学博物館展示部長 学芸員)は、実は徳川好敏氏のご子息と日本航空協会のお計らいでお会いしたことがあるのが密かな自慢です。ご子息も威風堂々というか、静かなたたずまいの中に、何か強いものを持っているのを感じたことを覚えています。

【了】

東京のど真ん中にある「初飛行の地」現在の様子は?

Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)

成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。

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コメント

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2件のコメント

  1. 日野大尉は、諸説ですか。
    なるほどね。それが、学術的態度なんですね。

  2. 所沢にファルマン運輸なんて会社もあるほど馴染みのある出来事のようで。

    ちなみに私の航空関連知名人の縁戚の方を見かけたプチ自慢。
    科博で展示されていたネ20ジェットエンジンの前で橘花の開発に関わった種子島氏のお孫さんという方を見かけたことが。
    ご自身のお爺様の関わったものということで来館したそう。
    美しい奥様でした。