40年前の欧州フライト 今との違いは? いろいろ寒すぎ冷戦下のソ連 伝説の経由地アンカレッジ
数々の貴重な経験、最後はモスクワに立ち寄る!
帰りはブリティッシュ・エアウェイズのボーイング707で、ロンドン・ヒースロー空港から新東京国際空港に向いました。この便では途中で、給油のためソビエト連邦(現ロシア)のモスクワを経由するのです。つまり、西側であるイギリスの旅客機で、「鉄のカーテン」の向こう側である、東側のソ連へ降りることになるわけです。
トランジット(乗り継ぎ)のため、いったんモスクワの空港に降り立ったとき、筆者の気のせいなのかもしれませんが、独特の冷えた雰囲気があったことを記憶しています。用をたすべく化粧室に入ったとき、ドアのカギがかからず扉の下部が開放されている、不慣れな「ヨーロッパスタイル」であることも相まって、「警備員に職務質問されたらどうしよう」「このまま捕まったら帰れないかもしれない」と思わせる雰囲気があり、“雉を撃つ”のもひと苦労です。空港の景色を楽しむ余裕は全くありませんでした。
モスクワであたふたとシップに戻り、日本へ帰ったわけですが、新潟らしき土地が見えたときには、やっと帰れたという(いろいろな意味での)安心感に浸ったことを覚えています。ちなみに、当時のソ連の空港はとても撮影できる雰囲気ではありませんでしたし、JAL(日本航空)が公開している現地情報によると、現在も、ロシアの空港での写真撮影は禁じられているようです。
このツアーに参加したことで、希望にあふれて明日からの学業に努めるというより、諸外国、特に欧米の航空産業の実情を目の当たりにして、しばらくは我が国の置かれた状況と比較してあまりにも寂しく感じられ、茫然としていたことを想い出します。
そのおかげで、日本で航空関係の博物館に関わりたいと考えるようになったので、少なくとも人生の岐路に立ったということでしょうか。
【了】
私は、父の仕事の関係で、1971年に羽田空港発モスクワルートのアムステルダム便に搭乗しました。
今で云うところのコードシェア便でしょうか?
機材はロシア製のイリューシンIL-62クラシック。便名はKLMでした。
記憶が定かでは有りませんが、機体の片面はKLM、もう片面はアエロフロートの塗装が施されていた様に思います。
進行方向左側の窓側座席に座り、翼面の何かしらのゲージ、翼後方の風に吹かれる紐状の物体を暫く見て居ました。
フライトスケジュールは、モスクワまで直行と聞いて居ましたが、燃料補給の為、多分、イルクーツクと思われる空港でテクニカルランディングしました。
給油中、空調が止まる為か、扉が開放され、落下防止の為のロープが張られ、外の景色が見られました。
モスクワ空港に到着し、給油中はターミナルに移動する事になりました。
タラップを降りると、銃を携えた兵士達が人一人分の通路を確保する様に人垣を作り、ターミナルまで進みました。
兵士達が我々に正面を向けていたのか、背中を向けていたのかは、記憶に残っていません。
建物の階段を上り、搭乗者全員が一つの部屋に入ると外からガチャリ!と大きな音で施錠されました。
窓からの景色は、黄昏の他の建物の屋根が見られただけでした。
トイレは、監禁された部屋に有りました。
再搭乗の際も同じ人垣を通って機体に辿り着きました。
出発直前に機内放送で「上空が嵐の為、出発を延期します。」と……
続けて「待機場所は機内かターミナルビルのどちらでも構いません。」
親に伴われ、ターミナルビルに移動しましたが、今回はバスで移動。着いた場所も一般的なターミナルビル。
薄暗く、人気が無く、椅子がまらばだった記憶です。
トイレも自由に使え、便座が高く、よじ登って座り、座ると足が届かず難儀しました。
トイレットペーパーが灰色で、ゴワゴワ!
子供の頃の思い出です。
成人し、仕事でシベリアルートに搭乗した際、JALのジャンボ400型のコックピットにお邪魔させて頂きました。
パイロットさんの説明で、万が一の際、ジャンボジェット機が着陸出来る空港がレーダーに表示されるそうですが、シベリア上空では表示される事は無く「地上側でスイッチを切っていると思われる。」と。
鉄のカーテンは、いつまでも有り続けることを実感しました。
何年か前にアエロフロートでモスクワを経由したことがありますが、西側と何ら変わりなくどこで写真撮っても何も言われませんでしたね。
ラッキーなことに沖止めでしたが、タラップを降りてバスに乗るまでに写真を多数撮りましたけど、特になにも言われなかったです。