まさかの“双胴”採用!…なぜ? 露・スホーイ初の旅客機「Su-80」が異形すぎた件
なぜ「Su-80」は双胴機になったのか?そのメリット
一般論としてSu-80で採用されている「双胴機」のレイアウトは、貨物機として使用するときにその威力を発揮するとされています。たとえばC119「フライング・ボックスカー」輸送機では、胴体最後部を貨物ドアとすることで、そこから貨物の積み下ろしができました。こうすることで、胴体横から貨物を積みこむより、円滑に、しかも大きなものを搭載できます。
Su-80では貨物輸送機バージョンも用意されており、貨物ドアも胴体最後尾に設置され、そこから貨物コンテナも搭載できました。また、旅客機バージョンでは旅客の乗り降りにも使用できます。
この使いやすいドアの設置で、設備が不十分な空港でも旅客・貨物を運べることが「双胴機」のレイアウトを採用した一因とすることもできるでしょう。
リージョナル機としても、スホーイの歴史上から見ても異色の飛行機となったSu-80。同社がこのような機体を生み出したのは、時代背景も一因と考えられます。
旧ソ連では、様々なリージョナル機が開発されました。たとえば、ターボ・プロップ機ではアントノフ設計局のAn-24系、ジェット機ではヤコブレフ設計局のYak-40などです。しかし、これらの機体は1960年代にデビューしたもので、1990年代に代替機の開発が検討され始めました。この一環で戦闘機の名門が生み出したリージョナル機が、Su-80でした。
なお、Su-80で最大の特長とされたのは、STOL(短距離離着陸)性能。スホーイ社は「飛行機の離着陸性能と低圧タイヤを備えた着陸装置により、未舗装、氷、雪に覆われた滑走路を持つ小さな飛行場での使用が可能だ」とし、1000m以下での滑走路でも運用可能としていました。
しかし、このSu-80はわずか数機の製造にとどまった状況で、成功作とはいえず終わってしまいました。その後スホーイ社は、リージョナル・ジェット機「スーパージェット100」の開発に乗り出します。そう見ると、2モデルとも、なんとなく機首の形状が似ているような気もします。
【了】
Writer: 種山雅夫(元航空科学博物館展示部長 学芸員)
成田空港隣の航空科学博物館元学芸員。日本初の「航空関係専門学芸員」として同館の開設準備を主導したほか、「アンリ・ファルマン複葉機」の制作も参加。同館の設立財団理事長が開講した日本大学 航空宇宙工学科卒で、航空ジャーナリスト協会の在籍歴もある。
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