満鉄だけじゃない 中国の鉄道を走らせた日本の国策会社「華北交通」「華中鉄道」 夢みた大陸縦貫
軍事輸送で鉄道は明治時代から重視されていました。日中戦争期に中国大陸でこの役目を担ったのは、現在一般的にはあまりその名を知られていない「華北交通」と「華中鉄道」という二つの国策鉄道会社でした。
ほぼ満鉄の姉妹会社 しかし経営は分離された華北交通
1938(昭和13)年11月に発足した国策会社「北支那開発」の下、港湾・鉄道・道路といった運輸交通を統べる会社が1939(昭和14)年4月11日に誕生しました。この会社は陸軍大臣が北支那開発を通じて命令と監督ができるとされました。これが華北交通です。
さらに華北交通は、蒙彊連合政府(後の蒙古連合自治政府)の域内にあった鉄道の経営も委ねられました。
華北交通は、満鉄から車両・人員・設備・鉄道運営のノウハウを継承しましたが、満鉄は経営から排除されていました。おそらく、鉄道を中心とした総合国策会社である満鉄の力を少しでもそぎたいという政治的な目論見と、想定される対ソ戦の集中幹線に満鉄は必須のものであるという軍部の力が働いたのでしょう。技術は満鉄、資金は北支那開発というのが華北交通の成り立ちでした。
“日本の国鉄寄り”だった華中鉄道
この時期に設立されたもう一つの鉄道会社「華中鉄道」も、華北交通と似たような経緯で発足した会社でした。この会社の路線は、「南船北馬」といわれ、河川やクリークが多い華南(中国南部)における水運を完全に掌握できない日本軍が、主に軍需物資を運ぶのに使用しました。
まず1938(昭和13)年3月に「中支那振興設立要綱」が閣議決定され、国策会社として「中支那振興」が設立されます。その下に1939(昭和14)年4月30日に設立された会社が華中鉄道でした。ちなみに華北交通の技術・人員が満鉄に影響されていたのとは異なり、こちらは日本の国鉄(鉄道省)の技術的影響力が強かったといわれています。
この二つの鉄道は、日本陸軍の華北進攻の前線にまで展開した満鉄にくらべ、占領地、とくに後方地域で活動していました。さすがに前線地域は軍の鉄道部隊が掌握していたからです。
それでも鉱山がある都市から港湾がある都市や、中国大陸を南北に縦断する路線は重視され、とくに華北交通の津浦線(天津~浦口〈徐州~浦口は華中鉄道〉)と華中鉄道の海南線(上海~南京)の復旧は急がれました。
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