戦争に駆り出された「海の軽トラ」機帆船とは 「南方から帰ってきた船は1隻もなかった」県も

「南方から帰ってきた機帆船は1隻もなかった」県も

 これら機帆船の多くは4個中隊からなる海上輸送大隊(大隊定数で機帆船・漁船400隻)2個(第一、第二海上輸送大隊)に配属され、大型船と陸上の中継輸送や、大型船が入れない場所への局地輸送に使用されました。

 また「小型で目立たないだろう」ということから、単独での長距離輸送も行っていましたが、その見積もりは甘いものでした。そうした任務では、連合軍の哨戒機に発見され相次いで撃沈されています。

 さらに当時、民間の船舶会社である日本郵船が30隻ほどの機帆船を購入し、ビルマ(現ミャンマー)の大河川でこれらを使用して軍の輸送に協力しました。

 一方、海軍は、相次ぐタンカーの喪失から1944(昭和19)年5月になると「南方石油還送計画」と称し150総トンの大型機帆船100隻を使用した作戦を始めます。産油地のインドネシア・タラカンからマニラを経て台湾の高雄まで、ガソリン用ドラム缶を使用した石油輸送でした。

 結局、「外洋航海に不適当」と言われた機帆船は、太平洋戦争半ば以降、日本軍が戦場とした地域全てに展開して航行するようになりました。

 また、軍による小型船の徴傭はかなり行き当たりばったりだったようで、陸軍では1000総トン以下の船の徴傭名簿を残しておらず、それぞれの船舶部隊が必要に応じて勝手に徴傭してしまうことも多かったようです。通常業務中の民間小型船がその場で軍に引っ張られていった、というエピソードもあったほどです。

 最終的に機帆船が太平洋戦争でどの程度失われたのか、正確な統計は今も出ていません。例えば和歌山県では94隻の機帆船が徴傭され、9隻が帰還しましたが、南方の任務から帰ってきた船は1隻もなかったそうです。

 終戦直後に設立された経済安定本部が、「2070隻喪失、1万6856名戦没」という数字を出しています。この、決して正確とはいえないはずの数字が、徴傭機帆船の運命を伝えるほぼ唯一の記録として、現在残されているばかりです。

【了】

【え…】これで太平洋へ? 戦争に駆り出された「機帆船」(写真)

Writer: 樋口隆晴(編集者、ミリタリー・歴史ライター)

1966年東京生まれ、戦車専門誌『月刊PANZER』編集部員を経てフリーに。主な著書に『戦闘戦史』(作品社)、『武器と甲冑』(渡辺信吾と共著。ワンパブリッシング)など。他多数のムック等の企画プランニングも。

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