一歩手前だった「日本版パナマ運河」とは!?「琵琶湖~日本海直結」の夢はなぜ何度も散ったのか
計画を次々に阻む戦争の影
1800年代初期には、敦賀近隣の笙(しょう)川を使い、引き船を浮かべて人員や馬で「できるだけ上流まで引っ張って遡ろう」という案が登場します。この計画はそれなりにモノになり、「疋田(ひきた)川船」として幕末まで使われました。
それでも「運河全通」の夢は、明治維新後もいくつか構想として登場します。1873(明治5)年の「阪敦運河」計画は、当時の貴族院も採択し順調に進むかに思われましたが、日露戦争(1904~05年)で予算のメドがつかずあえなく断念となってしまいました。
同様に1933(昭和8)年には、半植民地の満州国(現・中国東北地方)と京阪神との経済的つながりを深めようと、「大琵琶湖運河計画」が持ち上がります。
発案したのは土木技師・田辺朔郎。水害対策や発電目的で京都市内へ水を引くために造られた「琵琶湖疏水」の設計を主導した人物でした。閘門(こうもん。水門の一種)で運河を堰き止めて水面を上下させることで、日本海と琵琶湖の高低差(約85m)を克服し船を通そうというもので、まさに“日本版パナマ運河”です。
計画では全幅85m、水深10mで1万t級の商船の航行を想定。工期10年を予定していましたが、これも日中戦争と、続く太平洋戦争の激化で幻と消えてしまいました。
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