一歩手前だった「日本版パナマ運河」とは!?「琵琶湖~日本海直結」の夢はなぜ何度も散ったのか
「新幹線を停めた男」が船頭役で実現まであと一歩
第2次大戦後に現れた計画は、あと一歩で実現していたかもしれません。
1960年代の高度成長期になると、運河計画が息を吹き返します。しかも旗振り役は、当時の与党・自民党の副総裁、大野伴睦(ばんぼく)氏という大物政治家ですから、現実味は俄然増して、周辺自治体は大いに期待しました。
大野氏は「新幹線を停めた男」として有名です。1964(昭和39)年に東海道新幹線は開業しましたが、「通過県なのにわが県だけ駅がないのは不平等」として、岐阜県の田んぼの真ん中に「岐阜羽島駅」の建設を追加させた実力者です。「政治駅」と揶揄されましたが、地元では英雄視され、駅前公園には同氏夫妻の銅像まで建てられました。
大野氏は未達成の運河計画を引っ張り出して、実現させようと自ら船頭役を買って出ました。ただしこれまでの「琵琶湖~大阪(大坂)」とは異なり、「我田引水」よろしく伊勢湾へとルート変更します。
琵琶湖北部の長浜から姉川を伝って東進して関ケ原を横切り、濃尾平野の揖斐川まで運河を開削する約44kmの部分と、揖斐川~伊勢湾の既存河川を使う約25kmの部分の合計約70kmで、琵琶湖最北端の塩津~敦賀間約20kmを合わせ総延長は110km弱となります。
運河は閘門式を採用し、3万総トン級の商船が1日あたり18隻。片道の運航時間は北行きで14時間、南行きで20時間を予定しました。また予想工事費は2500~2500億円と見積もりましたが、東海道新幹線の建設費が約3000億円だったことを考えると「超」巨大プロジェクトだったことは確かです。
大野氏は岐阜、愛知、三重、滋賀、福井の周辺5県など関連自治体を束ね、1962年に「日本横断運河建設促進期成同盟会」を旗揚げ。自ら会長につき「“海なし県”岐阜に港を造る」を口癖に“船頭役”として政府に猛プッシュします。
これが奏功したようで、何と1963年度には政府から調査費1000万円を獲得。とにかく“剛腕”には定評がありました。
ところが無念にも、翌年1964年に大野氏は帰らぬ人に。強力なリーダーを失った運河計画は数年後に中止となってしまいました。
すでにモータリゼーションの真っただ中で、国内物流も急速に整備された高速道路とトラック輸送にシフトしていた時期だったので、仮に完成しても、果たして巨費を投じるだけのメリットはあったのか、という疑問は残します。
その後も1990年代のバブル期以降も、運河構想は何度か出現しますが、いずれも説得力に欠け、時代錯誤の感が否めないようです。
【了】
Writer: 深川孝行
1962年、東京生まれ。法政大学文学部地理学科卒業後、ビジネス雑誌などの各編集長を経てフリージャーナリストに。物流、電機・通信、防衛、旅行、ホテル、テーマパーク業界を得意とする。著書(共著含む)多数。日本大学で非常勤講師(国際法)の経験もある。
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