旧日本海軍“最後の大仕事”=人類史上稀な民族大移動だった「復員事業」 かき集めた日本の艦艇227隻の“使い分け”とは

復員輸送船の使い分け

 優先されたのは日本から遠い太平洋の島々からの復員です。島嶼部の守備隊では、日本からの補給が途絶えて餓死者が続出していました。

 輸送には大型艦があてられ、1945(昭和20)年9月1日に第一陣の「高砂丸」が東京港を出航し、ニューギニアの北方にあるカロリン諸島のメレヨン島にいた守備隊を収容しました。さらに空母や「氷川丸」他の大型船がマーシャル諸島、ラバウルやソロモン諸島、ニューギニアの復員を行い、一番大型の「葛城」(排水量1万7150t)は一度に5000人を輸送しています。

 一方、東南アジアや中国大陸、朝鮮半島などの復員と民間人の引き揚げは、巡洋艦と駆逐艦などの小型艦が行いました。復員輸送船で最も古かった「八雲」は、日露戦争前にドイツから購入した装甲巡洋艦でした。竣工から45年を経た老朽艦で、遠距離の航海には適さないとして中国大陸と台湾からの復員輸送にあてられています。

 数々の激戦を生き残った幸運艦として有名な駆逐艦「雪風」は、往路の際に外地で裁判が行われるBC級戦犯の輸送も行っています。

 このように、使える船はすべて投入する態勢を取ったものの、日本の艦艇だけでは足りず、日本政府はGHQに米軍艦艇の貸し出しを要請します。GHQは12月には物資や兵員輸送用のリバティ船や戦車揚陸艦LSTといった約200隻の艦艇を提供しました。

 同時に戦後処理を行っていた陸軍省と海軍省は、それぞれ第一・第二復員省となり、復員事業が本格化します。

わずか5年で625万人が帰国

 軍隊の復員と民間邦人の引き揚げは1946(昭和21)年春から夏にかけてピークを迎えます。その一方で、役割を終えた復員輸送船は順次、解体されていきました。その中にはビキニ環礁の原爆実験で標的艦となった軽巡洋艦「酒匂」や、「雪風」のように戦時賠償艦として台湾に引き渡された艦艇もありました。

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1947年5月、復員任務を終えて東京湾で台湾への譲渡を待つ「雪風」(画像:アメリカ海軍)。

 こうして1950(昭和25)年9月までに約625万人の日本人が帰国を果たしました。ただし、シベリア抑留者の帰国は1956(昭和31)年まで、引き揚げ者の輸送は1970年代まで続きます。

 日本にとっての「戦争の後始末」である復員と引き揚げは、戦域が広大だったために、同じ敗戦国だったドイツとは比べものにならないほど大規模になりました。これほど大量の自国民が短期間に帰国した例は、現在に至るまで他にありません。またこれは、日本海軍艦艇が最後に行った大仕事ともなり、それとともに旧日本軍はその歴史の幕を閉じたのでした。

【了】

【ここに乗って日本へ帰ってきた】改造された“復員輸送艦”の艦内(写真)

Writer: 時実雅信(軍事ライター、編集者、翻訳家)

軍事雑誌や書籍の編集。日本海軍、欧米海軍の艦艇や軍用機、戦史の記事を執筆するとともに、ニュートン・ミリタリーシリーズで、アメリカ空軍戦闘機。F-22ラプター、F-35ライトニングⅡの翻訳本がある。

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