型破り設計の極み!?「最強すぎた軍用機」なぜ頓挫? 「伝説の旅客機」につながったその後
なぜ操縦席が残されているのか
超音速飛行では空気の圧縮にともなう空力加熱で機体表面は高温になります。TSR-2の操縦室部分は、この温度変化が操縦室内にどのような影響を与えるかを調べるために、1963年にサリー州でつくられました。そして、TSR-2計画のキャンセル後、この操縦室は超音速旅客機「コンコルド」の開発に活用されたということです。
しかし、「コンコルド」開発のために残されたものの、この操縦室部分はもう何も中に備え付けられていません。それをなぜ公開しているのでしょうか。
筆者はこれを、ブルックランズ博物館が、かつて操縦室部分がつくられた土地にあるのに加えて、昔日の技術的挑戦を将来に伝えていく強い意志が英国民にあるから強く推測しています。
1950~60年代、超音速飛行の実現へ各国は軍民を問わず力を注ぎました。英国もその中で仏国と手を組み、航空大国米国でさえ挫折した超音速旅客機「コンコルド」を実用化しています。こうした技術力を誇りにし、後世に伝えていく具体的な“形”として操縦室部分は展示されているのでしょう。
そして、もう1つは、TSR-2のキャンセルへの反発もあるのかもしれません。開発中止は、開発費の高騰を非難する当時の政権の決定によるものでした。野心的な性能を狙っていただけに開発側は大いに不満に思ったことでしょう。「最強の軍用機を作れなかった」その思いが、現代まで操縦室部分を残すことにつながったのかもしれません。
【了】
Writer: 清水次郎(航空ライター)
飛行機好きが高じて、旅客機・自衛隊機の別を問わず寄稿を続ける。
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