就航50周年のJAL「東京〜NY線」、困難を極めた日米交渉のプロセスとは
2016年11月に就航50周年を迎えるJALの東京〜ニューヨーク線ですが、開設に至るまでには困難を極めた日米交渉のプロセスがありました。『日本航空20年史』を元にその歴史を探ります。
世界がキャリア育成に邁進、そのなかでJALは…
JAL(日本航空)の東京〜ニューヨーク線が2016年11月12日(土)、就航50周年を迎えます。現在は1日2便、週14往復が運航されている同路線ですが、開設までの歴史をひも解くと、一筋縄では行かなかった日米交渉のプロセスが浮かび上がってきます。
1954(昭和29)年にDC-6B型旅客機を使った初の国際線(東京〜サンフランシスコ線)を開設したJALですが、その後も国際線を拡大していきます。『日本航空20年史』によると、この当時の世界各国は「ナショナルフラッグキャリア」育成に邁進(まいしん)しており、自国の航空会社が保有する航空機や路線数を競うことで国威を世界に示していました。
そのなかでJALは日本〜アジア〜ヨーロッパ〜北米〜日本を結ぶ「世界一周路線」開設を経営目標のひとつとして構想します。
世界一周路線を開設するには、当時の航続距離を考えるとアメリカ東海岸に乗り入れることが必須でした。しかし1952(昭和27)年に締結された日米航空協定は、日本の航空会社がアメリカ東海岸に乗り入れる権利を認めていなかったのです。
これを打開すべく岸 信介首相(当時)が1960(昭和35)年1月、アイゼンハワー米大統領との会談に臨みます。そこにおいて岸氏はまず日航機のニューヨーク乗り入れを打診。そこから世界一周路線の実現を目指した活動が始まることになりますが、協定改定を巡る交渉は難航することになります。
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