東京の鉄道文化を決定づけた明治の決断 「外濠」が生み出した中央線

東京都心を東西に横断しているJR中央線は江戸城の外側の堀に沿って線路が敷かれています。そのルート選定の背景には、鉄道と道路を立体交差させるという明治時代の「決断」がありました。

馬車鉄道から始まった東京の軌道交通

 東京都心を東西に横断しているJR中央線は江戸城の外側の堀、いわゆる「外濠」(そとぼり)に沿うルートで線路が敷かれています。

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東京都心の「外濠」沿いを通る中央線は明治期に建設された(画像:photolibrary)。

 このような場所に線路が敷かれたのはなぜなのか。その歴史をたどっていくと、明治時代のある「決断」がありました。

 明治維新によって「首都東京」が成立すると、江戸時代には徒歩と駕籠(かご)くらいしか存在しなかった庶民の陸上交通手段に、新しく鉄道、人力車、乗合馬車が加わります。当初、それらは庶民が日常的に利用できる乗り物ではありませんでした。しかし、東京が近代的な都市として発展していくにつれて、一般市民の移動の機会は徐々に増えていきました。

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明治期の東京を駆け抜けた馬車鉄道と路面電車(左画像:『日本鉄道紀要』/右画像:『東京風景』)。

 東京の市街地に最初に開業した軌道交通は「馬車鉄道」です。1882(明治15)年に開業した東京馬車鉄道は、官設鉄道のターミナル・新橋駅前から出発し、商業の中心地である銀座、日本橋、上野を経由して東京最大の繁華街・浅草まで結ぶ、初の本格的な都市交通機関でした。

 しかし、動力に馬を用いる馬車鉄道は飼育に手間と費用がかかるうえ、周辺にふん尿をまき散らすなど衛生面の問題も多く、開業から10年ほどで動力を電気に切り替えようという動きが出始めます。東京馬車鉄道は社名を東京電車鉄道に改めると、1903(明治36)年から電車の運行を開始しました。

 それから60年以上にわたり東京の庶民の足として活躍した、「路面電車」の誕生です。

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路面電車に代わって東京の都市交通の主役となった高架鉄道と地下鉄道(左画像:『東京風景』/右画像:東京地下鉄道記録写真)。

 路面電車の路線網は、瞬く間に市内中に広がっていきます。しかし、商業の発展とともにヒトとモノの動きがますます活発化し、東京の市街地が郊外へと拡大をしはじめると、早くも路面電車の輸送力に限界が見え始めました。

 歩行者や車両と道路を共有する路面電車は、車体を大型化、または2両、3両と連結運転して輸送力を増やしたり、あるいは速度を上げて輸送効率を向上させることが、安全上の問題からできないからです。

 そうして登場するのが、道路と立体交差した専用の線路を走る「都市高速鉄道」です。1914(大正3)年、丸ノ内に東京駅が開業して赤れんがアーチの高架橋が都心まで繋がると、京浜線(現在の東京~桜木町間)の電車運行が開始され、近郊から都心のど真ん中まで高速大量輸送が始まります。

 1925(大正14)年には山手線が環状線になり、1932(昭和7)年に総武線の御茶ノ水~両国間が開業。1933(昭和8)年からは中央線の快速運転が始まるなど、現在の都心の鉄道ネットワークの原型は1920年代から1930年代にかけて確立しました。

 1920年代は近郊私鉄の勃興や日本初の地下鉄開業など、東京の都市交通が大きく変化し始めた時代ではありましたが、その主役はあくまでも鉄道省が運営する国鉄線の電車ネットワーク、いわゆる「省電」だったのです。

最初に都心に線路を伸ばしたのは中央線

 それでは改めて、都心の鉄道網の成り立ちを詳しく見てみましょう。

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東京都心部を走るJR線の開業時期(枝久保達也作成)。

 明治東京にはふたつのターミナルが設置されました。1872(明治5)年に開業した官設鉄道の新橋駅と、1883(明治16)年に開業した日本鉄道の上野駅です。

 東京市域(市制施行は1889年)には江戸以来の市街地が広がっていたため、たとえば1885(明治18)年に開業した品川線(現在の山手線)のルートが示すように、この頃の鉄道は基本的に市域を避けて建設されました。

 市内の路線整備は20世紀に入ってようやく本格化するのですが、そのなかで新宿から都心に延びる現在の中央線の一部区間だけは、1890年代に開業しています。

 中央線は四ツ谷から飯田橋まで、江戸城の外側の堀、通称「外濠」(そとぼり)に沿って走っています。この区間は戦前に複々線化された以外、構造は開業からほとんど変わっていません。

 東京で初めて市街地を走った鉄道が、なぜこのような構造で建設されたのか、その謎を解くには1888(明治21)年のある会議にまでさかのぼらねばなりません。そしてこの会議こそが、東京が「鉄道のまち」として発達していくことを決定づけた、重要な転機だったのです。

東京の骨格を決めた「市区改正」と鉄道計画

 東京を近代国家の首都にふさわしい都市に改造しようという「市区改正論」は、1888年(明治21年)に公布された東京市区改正条例によって具体化され、芳川顕正を委員長とする東京市区改正委員会の設置に至ります。

 東京市区改正委員会は街路、公園、港湾といったインフラや、官庁街や市場など都市機能の整備といった都市のあらゆる要素について検討し、計画案をまとめていきました。委員会で最初に鉄道が取り上げられたのは、1888(明治21)年11月2日に開催された第14回会議のことでした。

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明治期の計画図(画像:『東京市区改正条例俗解』1889年発行)。

 まず議題に上ったのは、南のターミナル・新橋駅と、北のターミナル・上野駅をつないで間に中央駅(現在の東京駅)を設置する「中央鉄道」構想です。

 実際に新橋~上野間の線路が繋がるまで40年近い年月を要する大プロジェクトの第一歩となったわけですが、当時の市街地の規模からすれば、都市部の鉄道はこれだけで十分と考えられていたため、その他には具体的な路線計画はありませんでした。

 そこに委員の田口卯吉から、ひとつの提案が出されます。彼は市街鉄道について、いまは必要なくても将来必要となるのであれば、しっかりと計画を定めておく責任があるのではないかと主張しました。

地上の鉄路は「道路に支障」明治期から主張

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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