着工したけどすぐ中止 戦時中に動いた東京の地下鉄計画とは
東京の地下鉄は現在の東京メトロ銀座線を除き、すべて戦後に開業しています。実は戦時中、現在の丸ノ内線に相当する路線が一部の区間だけ着工しましたが、資材不足などの影響ですぐに中止されました。
戦時体制下に産み落とされた「交通営団」
東京メトロが発足して14年。その前身である「帝都高速度交通営団」という、かつての名前は少しずつ歴史になろうとしています。
その名に「帝都」を冠するこの特殊法人は、1938(昭和13)年に公布された陸上交通事業調整法に基づき行われた交通調整によって、1941(昭和16)年7月4日に誕生しました。その4か月後に太平洋戦争が勃発し、大日本帝国は破滅に向けて転がり落ちていくのです。
交通営団自体は1930年代以降、ロンドンやパリ、ニューヨーク、ベルリンといった世界の大都市で行われた都市交通一元化の強い影響を受けて設立されたもので、必ずしも戦時統制の産物というわけではありません。
かといって全く無関係ということでもありません。政府が民間や東京市から地下鉄整備を取り上げ、自らの手によって強力に推進した背景には、地下鉄の防空上の意義を重視した側面があることも否めません。
交通営団は戦時下において一応新線建設に着手するものの、資材の不足や戦局の悪化による労働力不足もあり、ほとんど進展をみないまま工事を断念しています。
戦後の営団再出発と丸ノ内線構想
戦時統制を目的に設立された食糧営団や住宅営団などほかの営団は戦後になって全て解体されますが、GHQにその社会的役割を認められた交通営団だけは唯一存続が許され、1952(昭和27)年の丸ノ内線着工に至ります。
丸ノ内線の構想をさかのぼると、着工から6年前の1946(昭和21)年12月に策定された戦災復興都市計画に基づく地下鉄整備計画の4号線に行き当たります。計画図を見ると、神田や銀座で経由地を変更する小規模な変更はあったものの、概ね原案に近いルートで建設されたことが分かります。
しかし、破局的な終戦から1年4か月でこのような大規模な計画を立てられるわけがありません。それ以前の公式の地下鉄整備計画は、関東大震災の復興計画に基づいて1925(大正14)年に決定されたものがありますが、両計画を見比べると起点、終点のみならず経由地や路線の構成も含めて大きく変化していることが分かります。
4号線を見てみても、起点は大塚から池袋に変更され、都心方のルートも震災復興計画では人形町、築地といった後に日比谷線が経由するエリアまで大きく膨らんでいたものが、戦災復興計画では御茶ノ水・丸ノ内を経由する小さな半円に改められています。この二つの計画は連続したものなのでしょうか、それとも断絶したものなのでしょうか。
戦後の交通営団による地下鉄整備計画の変遷をたどるとき、どうしても1946(昭和21)年の復興計画を第一歩として見てしまいがちです。戦前と戦後という時代区分からしても、その間に東京が焼け野原になった事実からしても、そこに断絶があって当たり前のように錯覚してしまうのですが、事はそう単純ではありません。突如出現したかに見える1946(昭和21)年の地下鉄計画は、戦時中に検討された構想を下敷きとしており、それは戦後の地下鉄整備に大きな影響を及ぼしているのです。
20年という長い時間に、計画はどのように変化していったのか。震災復興計画と戦災復興計画の「ミッシングリンク」を探っていきます。
「相互直通運転」は戦時中に考えられていた
残り3059文字
この続きは有料会員登録をすると読むことができます。
Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx
コメント