【懐かしの国鉄写真】複々線化の「前座」 中央線の高架化を祝った夜行準急列車

線路を高架化することで踏切を解消するプロジェクトは、大都市を中心に昔から行われていました。前回の東京オリンピックが開催される直前、高架線への切り替えが図られたころの中央線を昔の写真で振り返ります。

「環七」との交差も昔は踏切だった

 1960年代(昭和30年代後半)は首都圏の人口増加が著しく、国電の各線は慢性的なラッシュが続いていました。最も乗車率が高かった中央線には、1958(昭和33)年度から高性能の101系(登場当初はモハ90形)電車が投入され、朝のラッシュ時には10両編成が2分間隔で運転されるようになります。

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【写真1】「環七」と中央線が交差する部分(中野~高円寺間)。高架切替の前日で、完成した高架橋の下を通勤形電車の101系が走っている(1964年9月19日、楠居利彦撮影)。

 しかし、人口増加は輸送力を上回り、根本的な解決策として線路の複々線化が計画されました。当時の線路は都心の一部を除いて地平を走っていたため、複々線になれば踏切の遮断時間がさらに長くなってしまいます。ラッシュ時には1時間に5分くらいしか開いていない踏切もありました。

 そのため、複々線化は原則的に高架化と合わせて進められることになり、中野~三鷹間の高架複々線化工事が1962(昭和37)年2月に着工されたのです。

 最初に高架化されたのは中野~荻窪間。東京オリンピックが開催される直前の1964(昭和39)年9月20日に複線の高架化が完成し、同区間の踏切が解消されました。【写真1】は中野~高円寺間で中央線と交差する環状七号線、いわゆる「環七」の踏切で、高架切替の前日に撮影したものです。

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【写真2】「1」と同じ場所。デッキ付き旧型電気機関車のED16形がけん引する貨物列車も走っていた(1964年9月19日、楠居利彦撮影)。

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Writer: 楠居利彦(鉄道ライター)

1946年、東京生まれ。中央線の沿線で育ったので、鉄道は複線で電化され、長編成の電車が頻繁に走るものと認識している。鉄道誌の創刊に関わり。車両データ本の編集を担当した。趣味は鉄道模型製作。

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