【都市鉄道の歴史を探る】東急電鉄の都心直通構想 100年越しの「野望」の変遷
現在の東急電鉄は地下鉄4路線と相互直通運転を実施しています。そこには100年以上から積み重ねられてきた、東急の都心進出の「野望」がありました。
ずっと昔から考えられてきた東急の都心直通
今年(2018年)の6月14日で東京メトロの地下鉄副都心線が10周年を迎えました。副都心線と東急電鉄東横線との相互直通運転も、2013年3月の開始から5年が経過したことになります。
直通運転の開始によって東急は念願の新宿進出を果たすとともに、開業以来東横線を支えてきた渋谷駅が地下に移転。同時に50年の歴史があった東京メトロ日比谷線との直通運転を終了するなど、東急にとって大きな節目となる出来事でした。
8路線計104.9kmの鉄軌道を擁する東急は、JR、地下鉄を除く鉄道事業者としては最多となる年間11.6億人(2017年3月末現在)の輸送人員を誇る、「日本最強」の私鉄です。その力の源泉となっているのが地下鉄4路線への相互直通運転で、山手線を越えて東急沿線と都心を直結しています。
東急の前身である目黒蒲田電鉄や東京横浜電鉄が開業したのは1920年代。地下鉄の整備が進み相互直通運転が拡大していくのは1960年代以降のことですが、実は東急の都心進出の「野望」は、100年以上前から積み重ねられてきたものでした。
それは川崎を目指した私鉄から始まった
東急電鉄の設立日は1922(大正11)年9月2日で、これは渋沢栄一らが設立した「田園都市株式会社」から鉄道部門が分離独立した「目黒蒲田電鉄株式会社」の設立日にあたります。目黒蒲田電鉄には武蔵電気鉄道という姉妹会社があり、後に両社が合併して現在の東急を形成します。
田園都市会社が目黒蒲田電鉄の設立にあたって鉄道経営者を探していたところ、阪急電鉄の創始者である小林一三が武蔵電気鉄道の常務だった五島慶太を紹介し、目黒蒲田電鉄の専務も兼任することになりました。こうして東急グループの創始者である五島慶太は、両社の鉄道経営を主導していくことになります。
五島慶太が武蔵電気鉄道に参画するのは1920(大正9)年のことですが、同社はもともと1910(明治43)年、実業家の岡田治衛武(おかだじえむ)が設立した会社です。岡田は五島の常務就任と入れ替わりで武蔵電気鉄道を去っていますが、東急の都心進出のルーツはこの岡田にさかのぼることができます。
岡田は武蔵電気鉄道を創立する前に別の鉄道会社を経営していました。東京市を走ったみっつの路面電車のうちのひとつ、外濠に沿って一周する環状線「外濠線」を運営していた東京電気鉄道です。
実はこの会社、設立時の社名は「川崎電気鉄道」といいます。四谷信濃町を起点として青山、目黒、池上を経由して川崎に至る本線と、池上から分岐して大森に至る支線の特許を受け、1900(明治33)年に設立されました。その後、東京市内の路面電車事業の方が有望であるとして社名を改め、外濠線など市内の特許を新たに取得した経緯があります。
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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)
1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx