【都市鉄道の歴史をたどる】戦前は五反田、戦後は新橋 京急「都心直通線」の変転

関東大手私鉄は戦前から終戦直後にかけて都心への乗り入れを目指してさまざまな計画を立てました。それは「赤い電車」がトレードマークの京急電鉄も例外ではありません。さまざまな案が浮かんでは消え、現在の都営浅草線への直通に落ち着いた歴史をたどります。

起源は川崎大師の参詣鉄道

 独自の運行スタイルから、多くの鉄道ファンに愛される京浜急行電鉄(京急電鉄)。その歴史は1898(明治31)年、川崎と川崎大師を結ぶ大師電気鉄道として設立されたことに始まります。現在の京急大師線です。

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いまでは「赤い電車」がトレードマークの京急電鉄(2017年4月、草町義和撮影)。

 東「京」と横「浜」を結ぶ京急の歴史が、支線である大師線から始まったのには理由があります。

 日本の電車の歴史は、世界初の電車がドイツ・ベルリンに開業してからわずか9年後の1890(明治23)年、上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会でデモンストレーション走行が行われたことに始まります。新時代の交通機関に可能性を見出した実業家たちは、交通の大動脈である東京~横浜間に電車を走らせる構想を相次いで打ち立てます。

 そのひとりである実業家の立川勇次郎は、川崎の地元資本家グループが川崎大師への参詣用として人力車や馬車に代わる近代的交通機関の整備を検討していることに目を付けました。立川はここに電車が走る鉄道を開業して、「関東における電気鉄道の標本」とすることで主導権を握りたいと考えたのです。

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京急の起源は川崎大師への参詣路線(現在の京急大師線)を計画した大師電気鉄道だった。写真は創立120周年記念車両の安全祈願を行う川崎大師の貫主ら(2018年2月、草町義和撮影)。

 わずか2kmの路線で、1899(明治32)年1月21日に開業した大師電気鉄道ですが、毎月21日の大師縁日には運びきれないほどの乗客が押し寄せる大成功を収めます。立川のもくろみ通り、競願グループは開業から3か月後に大師電気鉄道への合流を決め、「京浜電気鉄道」と改称して本命たる東京~横浜間の建設に着手することになったのです。

 1905(明治38)年までに念願の品川~神奈川間が開業。当初は道路上に軌道を敷いた併用軌道の区間が多く、路面電車然とした路線でした。しかし、1906(明治39)年以降には専用の敷地に軌道を敷いた新設軌道化と複線化を進め、高速電気鉄道への移行が進みました。

市内乗り入れを拒否される

 京浜電気鉄道の最大の弱点は、都心側のターミナルにありました。品川延伸を果たしたとはいえ、開業当時の品川駅は現在の品川第1踏切付近に置かれていました。東海道線の品川駅からはかなり離れており、路面電車(1903年までは馬車鉄道)に乗り換えるにしても八ツ山橋を徒歩で渡らねばなりません。

 なぜこんな中途半端な位置にターミナルが置かれたかというと、当時はここが東京市の市境だったからです(現在は港区と品川区の区界)。京浜電気鉄道は当初、東海道線の品川駅への乗り入れを希望していました。しかし、東京市が私鉄の市内乗り入れを拒んだため、やむを得ず市外ギリギリの位置に駅を設置することにしたのです。

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京浜電気鉄道の品川駅は東京市境の外側にあった(国土地理院の地図を加工)。
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かつての品川駅があった品川第1踏切付近(2018年9月18日、枝久保達也撮影)。

 東海道線・品川駅への乗り入れに失敗した京浜電気鉄道は、八ツ山橋を挟んで発着する路面電車に乗り入れて都心直通を目指すことになり、1903(明治36)年に軌間を1435mmから路面電車と同じ1372mmに変更します。

 1907(明治40)年には、東京市の外周に沿って路線を延伸する青山線を出願。1910(明治43)年に八ツ山橋の架け替えが決定。京浜電気鉄道は建設費の3分の1を負担して鉄橋上に併用軌道を敷設するなど、都心進出に向けた準備を着々と進めていたかのように思われました。

 ところが1911(明治44)年、東京市が民間の路面電車を買収して市営電車が成立すると、乗り入れを巡る協議は難航。1917(大正6)年になってようやく北品川~高輪間の乗り入れに合意しました。その後も用地買収に手間取り、駅の予定地が何度も変更されたため、着工は1922(大正11)年まで遅れたのです。京浜電気鉄道の高輪乗り入れが実現したのは、大正時代も終わろうかという1925(大正14)年のことでした。

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ウイング高輪と品川プリンスホテルの境界線上にある道路(左下)が斜めを向いているのは京浜電気鉄道の高輪駅の名残だ(2011年5月、草町義和撮影)。

 高輪駅は現在の「ウイング高輪」の場所にありました。今もウイング高輪と品川プリンスホテルの境界線が斜めになっているのは、ここを線路が走っていた名残です。「高輪ビルデイング」と呼ばれた駅舎は鉄骨鉄筋コンクリート3階建てで、20店舗ほどの売店を併設した本格的なターミナルビルでした。

路面電車から地下鉄乗り入れに転換

 しかし、品川進出から20年目にしてようやく手にしたターミナルは、完成前から時代に取り残された遺物となってしまいました。東京の路面電車は、第1次世界大戦以降の市街地拡大と人口増加により輸送力の限界を迎えており、都市交通の主役はすでに高架鉄道と地下鉄道に移りつつあったのです。

 1915(大正4)年5月にライバルの東海道線でも電車運転が始まります。現在の京浜東北線です。スピードが速く、運転本数も多く、新橋どころか東京駅まで直通する新型電車は、かつて京浜電気鉄道が国鉄から奪った旅客を奪い返していきました。路面電車ではなく、高速電車による都心乗り入れを実現しない限り、東海道線に対抗することはできません。

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有楽町駅付近を走る京浜線(現在の京浜東北線)の電車(中央やや左)。京浜電気鉄道にとっては経営上の大きな脅威となった(出典:『東京市街高架鐡道建築概要』鉄道省、1914年)。

 実はそのような動きは、高輪駅が開業する前から始まっていました。関東大震災直後の1923(大正12)年10月、京浜電気鉄道は高輪から赤羽橋、南佐久間町を経て大手町に至る地下延長線の免許を地方鉄道法に基づいて申請しています。

『京浜急行八十年史』によると、この新線構想は震災復興事業における地下鉄計画への参加を模索したものだったそうです。しかし、帝都復興計画から地下鉄整備が除外されたこともあり、1925(大正14)年に却下されています。

 続いて京浜電気鉄道は、形を変えて地下鉄乗り入れを探ります。1926(大正15)年5月に蒲田~五反田間の地方鉄道免許を申請し、東京地下鉄道が免許を保有する地下鉄1号線との直通運転を企図します。

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1926年に申請された京浜電鉄道五反田線のルート。東京地下鉄道への直通を考えていた(国立公文書館所蔵文書を参考に枝久保達也作成)。

 1928(昭和3)年に蒲田~五反田間の免許が下りるも、東京地下鉄道の地下鉄建設計画は資金難により大幅にペースダウンしており、いつになったら五反田まで到達するのか全く不透明な状態でした。

 また同年6月には池上電気鉄道(現在の東急池上線)が五反田まで延伸開業。さらに山手線を乗り越して白金、品川方面への延伸計画を立てていたことから、地下鉄の到達を悠長に待っているわけにはいかなくなります。

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山手線(下)の線路をまたいでいる東急池上線の五反田駅(上)。かつて白金、品川方面への延伸が考えられていたためだ(2018年3月、草町義和撮影)。

 京浜電気鉄道は地下鉄直通による都心進出計画を一時凍結し、取り急ぎ東海道線の品川駅に乗り入れることを決定します。1929(昭和4)年に出願し、1933(昭和8)年3月1日に現在の京急品川駅が開業。高輪ターミナルはわずか8年で放棄されました。

 品川駅に乗り入れても当初目標の都心直通は達成できず、都心までの連絡を競合の東海道線に依存するという不十分な方策ではありますが、危険を冒して都心への直通を追求するよりも、この方が確実で安全であると判断されたのです。

 ちなみに品川駅への乗り入れ決定後も、五反田延長線の構想は完全に中止されたわけではないようです。1929(昭和4)年に東京地下鉄道が五反田~馬込間の延長線免許を申請すると、1930(昭和5)年に京浜電気鉄道と「両社線が並行すべき区間の線路は複線として、東京地下鉄道会社に於て建設し、京浜電鉄をして五反田まで乗入しむること」という協定を締結しています。

架空線とサードレールの「ハイブリッド車」は幻に

 京浜電気鉄道と直通運転を誓い合った東京地下鉄道は1934(昭和9)年、ようやく第1期線の浅草~新橋間を全通させます。しかし、その先の五反田、品川方面への延伸は、資金不足で前に進みません。

 ここで五反田、品川方面の免許を持ちながら建設資金が不足している東京地下鉄道と、品川駅から地下鉄乗り入れを実現したい京浜電気鉄道の利害が一致。これまで検討していた五反田ではなく品川で接続するために、協調して新橋~品川間の地下鉄を建設することになりました。

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Writer: 枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)

1982年、埼玉県生まれ。東京地下鉄(東京メトロ)で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当し、2017年に退職。鉄道ジャーナリストとして執筆活動とメディア対応を行う傍ら、都市交通史研究家として首都圏を中心とした鉄道史を研究する。著書『戦時下の地下鉄 新橋駅幻のホームと帝都高速度交通営団』(2021年 青弓社)で第47回交通図書賞歴史部門受賞。Twitter:@semakixxx

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